2013.5.11(土)
熊本市内
●熊本にモリサワ機がある!?
2013年3月初旬、「熊本の実家が写植業を営んでいましたが、この度写植機を廃棄処分することとなりました。」とのご連絡を頂いた。モリサワの手動機が4台、使われていた時のまま保存されているとのことだった。
筆者がモリサワの手動機を見たことがあるのは大阪DTPの勉強部屋さんが所有する MC-6 のみ。機種をお尋ねすると、MM、MC-101、ROBO V が2台、とのこと。それぞれ電動式、電子制御式、画面搭載型の画期的な写植機として世に送り出された機種である。
熊本は筆者が住む岐阜からは非常に遠く葛藤したが、「モリサワ機がそのまま残されているが、近々処分されてしまう」ことがどうしても忍びなく、最期の餞という意味でも取材をお願いした。
亮月写植室初の九州取材。熊本に残された在りし日の写植の姿はどのようなものであるか。緊張感とともに当日を迎えた。
●いざ九州へ
2013年5月11日早朝。岐阜は雨。新幹線で九州に向かう。
自宅から約5時間半の行程であるが、車窓は見たことがない景色の連続で飽きることはなく、食事をしたり友人とお土産の相談メールをしたり(笑)しているうちに九州入りを果たした。
九州へは修学旅行と会社の親睦旅行で行ったのみ。こうして単独行動で心置きなく楽しめるのはいい。九州新幹線は和風モダンの凝った意匠で、「遠い所に来たなあ」という感慨と旅情を深めた。
「AROUND THE KYUSHU」のロゴ。ツバメを図案化し、唐草にしたもので円形に囲んでいる。質実剛健な東海道新幹線しか知らない筆者にとって、こういった旅を盛り上げる意匠の拘りは嬉しかった。このロゴがとても気に入ってしまい、大きなロゴを撮り直す為にプラットホームへ戻ったほど
(余談だが、丸善石油のロゴを思い出した筆者はもうそれほど若くはない)
車輌の入口の脇には点で描かれた号車の大きな数字とロゴ、800系のマーク。九州新幹線のデザインは全体的になんだかカワイイ
上質感漂う木製の椅子に植物柄のファブリック張り。単なる移動手段ではない、旅に出たのだ、という気分になる
熊本に降り立つ。薄曇りの空からは太陽が覗いていた。熊本城の下、路面電車が走る賑やかな街。岐阜とはまるで違う雰囲気に、異国にぽつんと放り出されたようなふわふわした昂揚感に包まれていた。
市電と熊本城。まさに熊本の風景(写真は翌日のものです)
●「よき時代でした」
ご連絡を頂いたKさんと駅で合流、現地に向かった。
住宅地にある旧事務所の前では、写植業を営んでおられたKさんのお母様とお父様が出迎えてくださった。早速事務所に入らせていただく。
約20畳の事務所には、4台の写植機が、在りし日のままの姿で埃を被って立ち尽くしていた。
まさに「写植屋さん」の風景であった。向かって左から MM、MC-101、ROBO V である。初めて見たモリサワの3機種。機械式から電子制御化、そして画面を備えるに至るまで。それぞれがどのような使命を持って開発されたのか、その外観から見て取れたと同時に、写植機の進化と時と同じくしてこの会社が順調に発展していった様も感じ取ることができた。
この事務所をそのままどこかへ持って行き、博物館に出来たらどんなにいいだろうか。しかしどのような産業でもそうであるように、必要がなくなれば淘汰され、使用された装置や用具は廃棄されてしまうものである。近い将来この風景が確実に失われ、二度と蘇らないことが非常に勿体なく、残念だ。せめて今だけは、かつての姿を克明に記録し、携わられた方達の声に耳を傾けよう。
80歳になられるというお母様は、ご実家が佐世保の旧海軍工廠に金属の銘板を納めていた関係で文字に携わるようになり、昭和40年代に写植業を始められたとのこと。縁あって九州一円のある受注を一手に引き受けてからはそれ一筋。10年ほど前まで写植機で仕事をされていたそうだ。
「今月は福岡、次の月は大分、というように仕事が途切れることがなかったから長くやって来られました。忙しい時は徹夜が多く大変でしたが、本当に恵まれた、よき時代でした。」とお母様。「従業員も2・3人雇って、退職金を積み立てて出せましたからね。『写植御殿が建つ』なんて言われていましたよ。」まさに写植の黄金時代を駆け抜けてこられたのだ。
SK-3RY に始まり、従業員さんに譲渡し今はない MC-6 からはずっとモリサワ機を導入されてきたとのこと。個人の事務所にも関わらず多くの機械や文字盤を導入したことにより、モリサワの重役の方とは現在に至るまで長く親交があり、森澤嘉昭前会長(現相談役)が来社されたこともあったそうだ。間違いなく熊本随一の存在である。
写植機の間には文字盤が所狭しと置かれていた。
「文字盤も殆ど揃えましたよ。私の道楽のようなものです。」と穏やかな笑顔で語られるお母様。九州のある分野を長い間支え続けたという矜持と、写植への深い愛情と、全て過去のものになりつつある寂しさをお言葉から感じた。
「企業としてやっていた写植屋さんは事務所を借りたり自分の会社の建物を使ったりしていたから、必要がなくなれば捨ててしまうしかないんだよね。家賃や固定資産税をその為に払い続けることはできないから。ここは自宅の敷地だし、母は戦前の生まれで物を捨てられない世代だから殆ど全部残せたんだろうね。」とKさん。写植機も、文字盤も、冊子等の資料も……今となっては貴重な産業遺産だと私は思う。それだけに、これだけのものがここにあることは奇蹟のように思えた。写植を大切にされてこられたお母様のお気持ちの賜物だ。
●写植機たちの記憶
お話を伺いながら気になっていたのは初めて見た機種のモリサワ機。写真でしか見たことがなかったため、じっくり拝見させていただいた。
●MM型
主レンズターレット
1968年に発表された、モリサワ初の電動式写植機。機械式 MC-6 をベースに、シャッターや送りなどの操作のみ押しボタンスイッチによる操作も可能としたもの。
MM型の目玉機能である電動用の押しボタンスイッチ
主レバーによる操作も可能
ラチェットや点示筒等、機械的構造は MC-6 を踏襲
昭和50年5月製作
●MC-101
主レンズターレット
1970年代中後半に発表された高性能電子制御機の花形。操作の殆どをボタンやスイッチとし、マイコンによる演算で頭末揃えや欧文のプロポーショナル印字などを自動化した。7セグメント赤色LEDによる座標表示や印字位置の記憶機能もあり。
操作パネル。押下すると点灯する押しボタンやデジタルスイッチ、12連の記憶レバーなど、いかにも機械という風情が恰好いい
印字キー(左)とキー入力パネル。印字キーは写研機では掌で押し下げる舌状のものだが、モリサワ機はすっきりとした平面的なスイッチである
点示筒とマガジン。点示筒には、いつか終えた最後の仕事で付けられた青いインクの点々が、まだ鮮明に残っていた。赤いサインペンは罫線表示用。左下にある菊花状のノブを廻して印字と罫線を切り換える
昭和53年11月製作
恰好いいので、もう一度操作パネルを。
●ROBO V
主レンズターレット
1983年に発表された高性能電子制御機 ROBO シリーズ第2弾。モリサワ機として初めてディスプレイ画面を標準搭載した。筐体デザインや操作パネルは更に洗練され、“歯車の塊”から“コンピュータの塊”へと名実共に雰囲気を一変させた。まさに写植ロボである。
操作パネル。MC-101と同様に、手前のキーボードには数字や方向、1H送りキーなどを装備、奥側に組版や記憶のためのスイッチがある。広々かつ整然としているので写研機よりも垢抜けた印象。左手前には印字キーがある。掌を置く位置は角が取れて変色し、長年の活躍を物語っている
Kさんが ROBO の電源を入れたところ、何と起動動作に入り、座標表示やインジケータのLEDが点灯、採字用の蛍光灯も灯った。ROBO は生きていたのだ!(筆者、執筆しながら号泣)
10年振りに起動した ROBO は、まだ最後の仕事の状態を覚えていた。起動して点示筒を回転させ、その日の印字位置を指し示した ROBO が不憫で、心の中で泣いた。
2台の ROBO V には画面が装備されている。「CRT電源」と書かれたスイッチが待機していた。押してみると……
画面も生きていたのだ! モリサワの電子制御機の操作方法が分からないので印字して画面に表示させることはできなかったが、正しく動作しているように見受けられることにはとても驚いた。
ROBO V の架台 ML-3500 の銘板。1985年7月と同年10月製作
ROBO V の電源スイッチにはあたたかな色の光が灯っていた。以前講演させていただいたときに話したように、「写植には血が通(かよ)っている」と私は思う。
まだ動く機械を処分してしまうのは何とも堪え難い。何とか記録にだけでも残したいと思い、ROBO の最期の勇姿を動画に撮らせていただいた。まずは動作する音だけでもお聴きいただけたらと思う。
→ROBO V 起動(MP3/22秒/592KB)
→ROBO V 入力音(MP3/7秒/168KB)
→ROBO V エラー音(MP3/5秒/115KB)
→ROBO V 動作音(MP3/35秒/848KB)
→ROBO V 起動・その2(MP3/22秒/541KB)
ROBO V の引き出しには、この機械が納品された時のテスト印字の印画紙が遺っていた。斜体のライン揃えや画面を見ながら打ったと思われる複雑な組み打ち、タブによるスポット罫線の飛び越しが見られる。右隅には「60.7.11入荷」と書かれている
●写植のある家庭
お父様も写植に携わってこられた方だった。報道関係の会社に勤められ、テロップが手書きから写植へと置き換わっていった時代からコンピュータ化されるまで印字されてきたとのことだった。
テロップ用のフィルムが大量に入った引き出し
横組みのテロップなので、感材は非常に横に長い
写植テロップの黎明期もニュースでは速報性が求められることが当然だったので、24時間態勢は当たり前、特に急ぐ時はタクシーが事務所まで迎えに来てテロップの素材を放送局まで持って行ったそうだ。お父様の会社では写研の機械が活躍していたそうだ。「写植の文字は綺麗だったね」としみじみ語ってくださった。
Kさんも高校生時代にアルバイトで家業の写植を手伝っていたそうだ。写植機の引き出しの奥から当時の印画紙が出てきた。バンドのライヴチケットを割付計算から印字までご自身で打たれたものだった。ミスや切り貼りは一切なく本職の仕上がり。1970年代の終わり、写植とともにある家庭の様子が脳裡に浮かんだ。写植の出番がなくなり、写植機が間もなくここからなくなろうとしている今日も、あたたかな繋がりは変わらずそこにあった。
まるで昨日まで仕事をしていたかのような事務所内
こうして半日は瞬く間に過ぎていき、夕刻となった。
写植屋さんは居心地のいい場所だったという私の記憶が、タイムカプセルのように形のあるものとしてそのまま今まで残されてきた場所。Kさんご一家にとっても「恵まれた」状況だったと思うし、訪れた私としてもそれは奇蹟のようだった。
間もなく熊本からも写植が生きた証が消える。それでも写植の記憶は、記録がある限り消えない。ご連絡をくださったKさん、ご両親様、本当にありがとうございました。
この夜と翌日は観光へと単独行。晴天にも恵まれ、時間の許す限り熊本を堪能した。いつかまた訪れたい土地が一つ増えた。
【完】
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