筑紫書体はどうやって、なぜ生まれたのか
2011.6.4(土)「大阪DTPの勉強部屋」第8回勉強会
於:新梅田研修センター


●気になる存在・筑紫書体

 フォントワークスの代表的な存在となった「筑紫書体」。
 元写研の藤田重信氏が携わっていることもあって、発売される前から気になる存在でした。一方でその独特な文字形状がなかなか筆者には受け容れられず、近付きたいがあまり見たくはないというジレンマを抱えつつもずっと頭の片隅にある書体でした。

 2011年春の終わり、そんな筑紫書体について作者ご本人が語られる催しがあると知りました。筆者がこの4ヶ月ほど土日も含めかなり多忙ということもあり参加申し込みを見送っていましたが、「あの独特なデザインにはきっと理由があるに違いない、先入観に囚われずに筑紫書体を観察したい、見方が変わるかも知れない」という思いに駆られ、開催3日前に参加を決めました。

 この講演がある「大阪DTPの勉強部屋」は初参加。大阪も「わたしの馬棚」以来ということで新鮮な気持ちで臨みました。会場は約100人が聴講するという大きなものでした。
(※次段落以降、聴講メモを基に構成しています。聞き逃しや勘違いにより実際の講演と異なる解釈をしている部分がありましたらお知らせください。また、文体が変わりますがご了承ください。→2011.8.6:頂いたご指摘を反映させました)

●同級生のレタリングが刺激に

 14時、大阪DTPの勉強部屋の主催者である宮地氏から挨拶。本講の話し手である元写研・現フォントワークス書体開発部長の藤田重信氏が登壇、講演が始まった。

 藤田氏は文字の話をすると周りが見えなくなるほど熱が入るという。小さな頃から何かに取り憑かれたように色々なものに熱中してきた。筑紫書体はそういう人間が作った書体である。
「ヒラギノを知っている方は手を挙げてください」……会場の半数は手を挙げただろうか。DTP使いにはごく標準的な書体だ。ヒラギノを作った字游工房の鳥海修氏は藤田氏の4年後に写研へ入社し、同年代だったので藤田氏にとってライバル的な存在だった。一方筑紫書体については「作者を知っている人は100人中1人ぐらいだろうから、作者ではなく書体について主に話します」と言われ、謙虚な方だなと思った。

 藤田氏は在住していた福岡県内の高校のデザイン科に進学し、1年生の時にレタリングの授業を受けた。自分の名前をレタリングするという試験で5点満点が取れそうだったが、床に落として紙に汚れがあったため4.5点だった。同じく高得点だった同級生の女子の方がもっと格好いい文字だと思った。その子の描いた文字は右肩上がりだった。だから筑紫書体も仮名が右肩上がりになっているという。
 筑紫明朝の仮名文字は他書体と比較して2°右肩上がりになっている。右肩上がりにすることで緊張感が生まれるのだそうだ。浅葉克己氏の著書に「明朝体の一番のポイントは紙面に緊張感がを持たせること」ということが書いてあったという。だから藤田氏の制作する書体は緊張感が表現されていると思っているそうだ。

筑紫明朝と他書体の比較
筑紫明朝と他書体との比較(講演配布資料より。以下同じ)
筑紫明朝だけ右回りに2°回転させると他書体と同じような雰囲気に見える。つまり筑紫明朝の仮名は他書体と比較して2°左に傾いている(右肩上がり)と言える。

 藤田氏が高校3年生の時、ホームルームでデザイン科の先生が教室に入ってきて、「写真植字機研究所(現・写研)へ行け」と言われた。当時内向的な性格で東京のような外へ行くことは考えていなかった。友人と話し込んでは悩む日々の中、その2ヶ月後、普通科の先生から就職先として写真植字機研究所と大日本印刷を紹介された。友人は大日本印刷を受け、多くの同級生が東京への就職を志望していたので藤田氏も写研の就職試験を受けてみた。そして合格した。
 1975年当時はオイルショックの影響から就職が厳しく、前年は100名程度を採用していた写研でもこの年の採用は二十数名だった。

●文字の感覚を蓄えた写研時代

 入社して3〜4年経っても後輩ができなかった。高校時代の先輩も写研に就職していたが多くが退職していて、それが原因で九州からは採用しないことになってしまっていたからだ。一方で東京都内から後輩が入社して来るが、彼らは当時開発が始まっていたデジタルフォント部門へ行ってしまった。
 就職が1年でも遅れていたら写研には居なかっただろうし、デジタルはいかにも格好いいが書体のデザインはできないから、今こうして筑紫書体は出来ていなかったかも知れない、と藤田氏。

 4年後、鳥海修氏や片田氏が入社してきた。彼らは「文字がやりたくて入ってきた人」だった。
 当時の写研の初任給は7万円ぐらいだった。藤田氏はその給料を服に使い、熱中していた。一方で今田欣一氏等が毎週水曜日に勉強会をしており鳥海氏も参加していたが、藤田氏は勉強会を知らずにいたそうだ。
 藤田氏が服に熱中するあまり、そのウェストの曲線具合でブランドが判るようにまでなっていた。また、似顔絵が好きでよく描いていたが、輪郭の曲線の微妙な具合で表情が大きく変わることに気付いた。書体も同じことで、30歳頃になってこの熱意がそちらへ向かっていった。

 入社時、藤田氏はLHM(本蘭明朝体L)が明朝体で最も美しいと思っていた。MM-OKL(石井中明朝体オールドかなラージ)は情感があり過ぎると思っていた。

本蘭明朝Lと石井中明朝体OKL
本蘭明朝L(LHM)と石井中明朝体OKL(MM-OKL)

 最近の講演会でデザイン科の高校生にLHMとMM-OKLのどちらが好きかを訊いたら、大半がMM-OKLと答えていた。
 伝統的なものを如何に新鮮にできるかが肝要だと藤田氏は考えている。
 写研にある書物を読み漁り、藤田氏は段々とMM-OKLに傾倒していった。そして遂には自分の書体を作りたくなっていた。

●理想の明朝体を求めフォントワークスへ

 1997年、藤田氏はこれまでの文字部から社長付へと異動しパイプ役を任された。それは文字を作れなくなることを意味した。
 一方で後輩が写研を退職し、フォントワークスへと移籍していった。フォントワークスの松雪社長が写研の中堅社員を探していた。
 藤田氏にもフォントワークスから打診があり、家族の今後も考えて福岡へ戻ることを考えた。
 松雪社長にフォントワークスで何をしたいか訊かれ、「明朝体を作りたい。マティスは本文用としては60点。写研は80点のものを作るから、それ以上のものを作りたい」と答えたという。

 1998年にフォントワークスへ移籍した藤田氏は、1999年、仕事の傍ら仮名から筑紫明朝の制作を始めた。
 写研でも仮名を作れるのは橋本和夫氏か鈴木勉氏ぐらいだった。あとの人は作りたくても作らせてもらえなかった。フォントワークスでも仮名の制作に困っていた。
 どこにでもあるもの(明朝体というスタイル)だと、人間は微妙な違いであっても見分けてしまう。明朝体の仮名は2°から5°右肩上がりに設計されるのが通常だが、配布された資料を裏から見ると筑紫明朝だけ更に右肩上がりだと判る。
「カ」という1字を取っても、1画目の始筆は他書体だと概ね60°だが、筑紫明朝は45°にしてあるといった具合に違いがある。
 例えば自動車の4ドアセダンの場合、1975年頃は台形と長方形が重なったような角張ったデザインが標準的だった。それが現在ではAピラーとCピラー*が倒れ、角の取れた曲線的なものへと変化した。
 藤田氏としては、明朝体でも2000年代に生まれたものは伝統的な形に作りたくなかったのだ。時代とともに新しく登場させるには新鮮なものを作りたかったと藤田氏は熱く語った。

*Aピラー、Cピラー
自動車の窓柱。前方からアルファベット順に呼ばれる。Aピラーはフロントガラス脇、Cピラーは後部座席ドアの後ろに位置している。

●著名デザイナーに支えられた筑紫明朝試作

 筑紫明朝は仮名の制作に手こずったという。
 2000年頃、試作した書体をフォントワークスの営業社員が角川書店や暁印刷へと営業に持って行った。まだ筑紫の名前はついておらず、「はくほう(漢字不明。白鳳?)」と呼んでいた。
 毎日制作で試行錯誤していると知らないうちにあるフィルタがかかるので、2〜3ヶ月眠らせては再点検していた。
 2001年、文庫本の版面を組んでみて「収まっている、すっきりしてきた」と感じた。戸田ツトム氏から松雪社長に、創刊する『デザイン』誌に協力してもらえないかという話があった。そこでこの書体を使ってもらったらと考え、A4に組んだ試作品を戸田氏に見せた。すると戸田氏からは「書体はいい。しかし名前が『はくほう』では(大仰だから)ダメだ!」と一喝されたという。
『デザイン』には当初字游工房の書体を使う予定だった。戸田氏は「游明朝体Rは熟成している。筑紫明朝は荒れている、暴れている」と言ってニコニコしていたそうだ。洗練を目指して筑紫明朝を作ってきたので複雑な心境だったという。結果『デザイン』には1号のみ筑紫明朝を採用し、2号以降は字游工房の書体を使用した。1号に使用した際にどこにも出回っていないこの書体について話題になっていたらしい。戸田氏には「これ以上変えないように」と言われていた。

筑紫明朝試作の仮名変遷
筑紫明朝・試作の変遷
右から3番目が『デザイン』創刊号で使用されたもの。

 配布資料に試作時の仮名を載せている。
「さ」は2画目の中央を凹ませ、築地体のように外膨らみにした。これによって安定感を増したと考えている。「な」は1・2画目と3画目との隙間を 20/1000 離したら落ち着いた。「た」は2画目を垂直に近くした。これは石井明朝体を意識した。垂直に近付けることに対し異論を唱える人もいた。
 2003年、戸田氏が装幀を手掛けた『山水思想〜もうひとつの日本』を見て、筑紫明朝がこれほど似合う本はないと感じた。組版に使われる中で、知を必要とするところに合うようだということが分かってきたという。当初筑紫明朝をどんな時に使ったらよいか訊かれても作者自身よく分かっていなかったそうだ。「スーボ」にしても当初は子供向けを想定していたが、発売後最初によく使われたのはピンク産業だったらしい。筑紫明朝も使われていく中で相応しい場所が分かってきたそうだ。
 祖父江慎氏にも筑紫明朝は気に入ってもらえた。筑紫明朝オールドの見本を祖父江氏に持って行ったら、漢字を特に食い入るように観ていたそうだ。この書体の漢字について「美人だね。他に比べようがないね。仮名に関しては普通かな」と話していたという。
 鈴木一誌氏からは筑紫明朝Lについて「大きく出すと劇的だね。それと横組が面白い」と言われたとのこと。この書体は右肩上がり故視線が次の文字へと移り易い。但しそれが見えるが為に「嫌だ」と感じる人もいるようだが、それはこの書体の宿命だと考えているそうだ。「嫌だ」と言う人は少ないので、個性の一つで良いのかなと思っているとのこと。

「永」を他書体と比較してみる。

「永」比較
「永」の比較(配布資料を基に編集)

「A1明朝」のような古い年代に制作された明朝体だと右払いが鋭い。字游工房の明朝体はウェイトに関係なく払いの終筆が垂直に近くピタリと止まっている。これは本蘭明朝の流れを受けているという藤田氏の考察。大蘭明朝や新聞特太明朝体も払いが縦にカットされている。逆に石井書体や秀英明朝は極力右へ払うようにしている。リュウミンはウェイトにより処理を変えている(太いほど終筆が縦に近くなる)。筑紫明朝は太くても出来るだけ右へ払うように設計したそうだ。

 ここで戸田ツトム氏の「筑紫明朝は暴れている」とした件について、『デザイン』9号から引用・音読された(以下は音読から文字化)。

 一つずつ見ると筑紫明朝にはどこか硬いところがあります。仮名がやや横に広がって全体の安定感を確保してもいます。従って全体としては文字それぞれが独特の運動に向かうというより、組版という組織的作業への準備がなされていると思います。行の意識化、しかし逆にそのような組版面に組み込まれた筑紫明朝は碁石のように並べられているのではない運動を開始し、行の中で様々個々の文字の表情が現れますね。暴れると批評したのはそのへんです。

 この記事の見解から、そういう意味ではMM-OKLも暴れていると言えると戸田氏は話し、「じゃあいいんだ」と藤田氏は思ったそうだ。
 藤田氏としては、どのような時であれ文字の表情が見えない明朝体は意味がないと思っている。逆に表情が見えるが為に一部で敬遠する人もいるのだとのこと。

●筑紫ゴシックオールド誕生秘話

 筑紫明朝がTDCを受賞した頃に発行された『デザインノート』誌内の記事扉に、活字由来と思われるゴシック体がボロボロに加工されて使われていた。「こういうのが必要はないか」と触発されて筑紫ゴシックオールドを試作した。実はこのボロボロのゴシック体、モリサワのゴシック体を加工したものだった。
 プレゼンの結果8割くらいの人には好評だったが、祖父江氏に見せたところ考え込んでしまい、「明朝はどれだけ美人に作ってもらっても結構だけどゴシック体は少しずっこけてた方がいいねぇ」と言われてしまったそうだ。しかしTDCの表彰式の前日に再会した際、「やっぱりこの書体は必要」と言われたとのことだった。
 藤田氏は筑紫書体について「花火のように広がる画線に生き生きとしたものを宿したい」と想いを語られた。
「父」の4画目の始筆部の“ひっかけ”を始めとする古風なデザイン処理もJISの漢字の字体の包摂基準目一杯を使って行っている。
 また、懐を狭く引き締めた字形のため組むと行の流れがガタガタするが、そういった特徴を持つデジタルフォントの書体はまだない。(※筆者註:筑紫ゴシック体に関する資料は配布されず、プロジェクター上でのみ見ることができた。筑紫オールドゴシックは筑紫ゴシックの字面を更に小さくし、懐を狭く絞ったような印象だった。)

●筑紫明朝オールドの設計思想

 筑紫明朝オールドの特徴を藤田氏が具体例を示しながら説明。
「永」を他書体と比較しながら観てみる。非常にバランスが取れているように見えるが、これについて藤田氏自身も「美しいと思うがやり過ぎだと自分でも思っている」そうだ。

筑紫オールド明朝と他書体を比較
漢字の比較(配布資料を基に編集)

「母」「隠」「勺」等の点はA1明朝のような旧来の書体では極端に立っているように見えるが、筑紫明朝オールドでは寝せた。(※筆者註:これはA1明朝が極端なのであって、他書体の点はそれほど立っていないように見える。)点が立っていると元気がないように感じる。
「勺」の2画目の大きなハネは、字游工房の書体では曲率が一定、それ以外のメーカーではハネに近付くにつれて強く曲がっていくのに対し、筑紫明朝オールドはゆったりとした大きなカーブを描いている。これは安定感があるように見せるためのものである。
 このように筑紫明朝オールドは一貫して張りのあるデザインにしているという。

「精」の米偏の1画目についても他書体では垂直に近い置き方で「おば様のボックス型スカートのよう」だが、筑紫明朝オールドはもっと若々しくならないかと考えて斜めに置いた。本来左払いは接合部の縦画が細く見えないよう横画から出しているが、筑紫明朝オールドでは下の方から出して横画にかけていない。今の人が腰骨で穿くようなもの。縦に払わず横に払うことで元気がある印象にしたかった。十字になっている箇所へ画線が集中しているように見えるようにしている。
 12画目のハネは「勺」と同じようにゆったりしているが、これは「岩田細明朝体」「岩田新聞明朝体」に対して藤田氏が抱いていたイメージを採用した。但し実際の同書体はゆったりとしたハネではなかったそうだ。
「方」は3画目が1画目と同じく中央から始まるのがバランスが良いが、ナールやゴナに端を発した懐の広い書体では左にずれる。その傾向は後に制作された明朝体にも現れているが、筑紫明朝オールドではバランスを重視し3画目を1画目と同じ位置から始めた。
「女」「要」「萋」のように同じ要素を使った漢字の場合、それが占める割合が小さくなってもひしゃげたように見えないよう個別に調整してある。「冠」「蒄」のようにかんむりが共通する場合もただ縦に圧縮するのではなく、横幅も数パーセント狭めてあるとのこと。こうすることで文字本来のバランスが現れてくるのではないかと考えている。こういった文字毎の調整は懐の広い書体ではできない。
「夫」のように「人」が入っている文字の場合、(秀英やイワタ等は)右に倒れて見えるが、筑紫では倒れて見えないようにしている。
 さんずいは1画目と2画目の点を同じ角度にせず文字の中心から放射状に広がるように角度を変化させている。3画目は細い書体では直線的なのが一般的だが、筑紫では大きく使われた時に味が出るよう弓なりの曲線を描いている。

 偏と旁との隙間は他書体よりも広めに取ってある。そうすることで、10ポイントぐらいで組むとそこに風がスッと流れ込むようで息苦しさがない。懐が広ければ紙面が明るくなり読みやすくなるが、藤田氏は文字固有の形を尊重し、絞るところは絞るようにした方が好きとのこと。この“絞り”は筑紫明朝では左右のみだが、筑紫オールド明朝では縦横で行っている。

 佐藤敬之輔氏の記念誌に精興社明朝の作者である君塚樹石氏のインタヴューが掲載されていたが、藤田氏が実際に書体を作るようになって本当にそうであることを感じたという(以下は音読から文字化。○は聞き取れず)。

 私が初めて君塚さんを訪ねた時、彼は65歳の頃であろうか、多分中風で寝床の上に起き上がったり炬燵に向かい合ってエイ談をさせてもらった。二、三度訪ねのうちにだんだん親しくなり、話し相手が欲しかったのか泣かんばかりに喜んでいろんな話しをしていた。○とか○は寝床のそばに寄り、「お前達、日頃俺を馬鹿にしているから、大学の先生がこうして遠くから訪ねて来てくれた。俺の作った書体をいいと褒めてくれる。どうだ」と得意そうにしたが体力は日に日に弱くなっていた。
 亡くなる一年程前のこと、初夏の晴れた日、空を見上げて言った。「平仮名のいいのを彫りたい、書きたい」。二インチ正方の方眼紙の上に鉛筆で輪郭を描いた平仮名が三組あった。その鉛筆のデッサンは張りつめたカーブが支え、繊細優美で色っぽくさえある。「平仮名は女さ。道を歩いていてもいい女に行き会えばどこまでもついて行く。足下の履物も大事だ。髪型、着物の着こなしも大事だ。少し鳩胸、○の小股の切れ上がった女がいい。パーンと張りつめた姿がそのまま平仮名になるんだ。今でも姿が浮かぶのだが手がこれでは描けない」と震える手を見て嘆いた。

 仮名は人間の形に見える、と藤田氏。平野甲賀氏はSHM(秀英明朝)を「武士が闊歩しているのが背景に見える」と喩えた。
「は」は浴場で髪を束ねようとして屈んでいる女性、「な」は斜め45°から見た顔に見えるそうだ。游築5号の「な」はやや無機質で3画目の点が下へ垂れるような感じが「ものもらい」みたいと仰っていた。一方で石井中明朝体OKLの「な」にはストロークがついておらず流れるようになっている。筑紫明朝オールドの「な」にもそれを採り入れている。

 ……ここで時間の15時半を迎えた。藤田氏は終始情熱的に語られ、「このような書体を作りたい」という強い想いが入念な設計として筑紫書体に込められていることがよく分かった。特徴的なデザインにはやはり深い理由があったのだ。
 これまでこの書体のことをよく知らずに最初見た時の印象だけで敬遠していたことを恥じた。写植に関わるようになって長くなるにつれ、新しい時代に生まれた書体を受け止めるのに抵抗が増していた筆者だが、この講演がそういった書体も興味を持って楽しく受け容れることができるきっかけになったと思う。フォントワークスのLETSがこの大阪DTPの勉強部屋限定で入会費無料(!)とのことなので、入会してみるのもいいかも知れない(笑)。そうする事で見えてくるものがきっとある筈だ。

 この後に続いた講演も興味深いものでした。レポートするには知識が足りないのでお許しください。
 今回は翌日に用事を控えていたため、講演会終了後の懇親会に参加できずとても残念でした。特に藤田さんには色々と突っ込んだ話をしてみたかったです。それはいつかのお楽しみということで。


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