手動写植オペレータに聞く 書体と組版の魅力とこれから

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 さて、ここからが本題。写植屋さんから見た書体と組版についてインタヴューさせていただいた。約1時間半、雑誌の記事からは読み取ることの出来なかった詳しい事情や駒井さんの思いを感じ取ることができた。
(※録音に基づいた会話形式です。ご了承ください)

●美しく伝えるために

亮月(以下「亮」) 写植の書体が持つようなやわらかい・品格のあるようなものが出始めてきましたので、その中でどういう風に組版や書体に関わっていけばよいかを模索していまして、特に、写植の時は書体自体の完成度がすごく高くて、それに合うように、従って組版を組み立てていくというところがあったと思うんですよ。
 いま、DTPでも写植と同じように書体が整ってきて、組版をするソフトもかなり電算写植に近いものが出てきましたので、そうであれば、写植でやってきたようなことがDTPでも出来るんじゃないかと思ってます。
 にもかかわらず、今は書体も組版もこだわりがないといいましょうか、写植の時代と思うとあんまり大事にされてないかなと感じてまして、その中でこれからどういう風にしていったらよいかということをお聴きしたいと思います。

駒井さん(以下「駒」) 機械的にセッティングするっていうのは難しいよね。今までは人間の頭で、美しいか美しくないか、どうしたらいいかが大体経験で分かるでしょ。それでもって組み物をしていたから、機械に対するセッティングをあまりしなくても済んだんだよね。

 自分自身の感覚でやっていけばよかったんですね。

 デザイナーによっては「こういう組み方が好きだ」っていう人が何人かいるわけでしょ。詰めにしても甘い詰めがいいとか、きっちり詰めた方がいいとか、個性があるでしょ。それを機械に覚え込ますとなるとちょっときついねぇ。

 そこは機械では個別に対応できないですからね。

 一律にオペレータや会社の組み方が決まっちゃうでしょ。今までだったらね、デザイナーがさ、これはゆったり組んで欲しいとか、尤も、文章によっても、オペレータが文章を見ながら、「これはきっちり組んだ方がいいのか、ゆったり組んだ方がいいのか」っていうのが大体判るでしょう。だから例えば婦人誌があるとしたら、年齢の高い人が相手だったらある程度ゆったり組んでなかったら読みにくいというか、本の内容にもよりますし、若い人だったらべったり組んでも読めるっていうのがあるよね。それは今までだったらオペレータの感覚である程度解決できたけども、機械にそれを教えるとなるとちょっと大変だね(笑)。

 先程見せていただいた雑誌でもそうですけども、本文を組んでいくというときに、内容によって相応しい書体とか組み方があると思いますし、先程の「一歯詰め」でも仮名だけは少し空けてやるですとか、そういう微妙な心配りがあるのとないのとでは、読み手としても入ってくる度合いが随分違ってくるんじゃないかと思うんです。

 それを機械に求めるとなるとね、相当進んだ機械でなかったら難しいよね。それが今までだったらね、見出しなんかだったら、ある程度ゆったり組んだ方がいいとか、ゴシックでかちっと組んだ方がインパクトがあるとか、デザインにも関係してくると思うんだけど、そういうのもありますよね。

 たとえば、デザイナーの人が「この書体で、詰めで、何級で」って指定はしてくると思うんですけど、その中で駒井さんが経験の中で「こうしたらもっと良くなるんじゃないか」というのをきちんと持っていらっしゃる、ということですよね。

 そうですね。指定がなくても、たとえば丸ゴシックで「フィルム」と印字するとしたらね、「ィ」が促音だとしたら、書体にもよるけども、あんまり小さく見えないんだよね。だから黙ってても促音を小さくしてやらないと促音に見えなくなっちゃうからね。ゴシックだったら割にかっちりしてるから、そんな細工しなくても大体読めるんだよね。だから書体によってはある程度促音を小さくしてやった方が促音らしくなるし、そういうのがあるよね。


拗促音の扱い(書体はヒラギノ丸ゴシック体W4)
右は未処理、左は「ィ」を小さくし、詰めてあります

 ちょっと前の『デザインの現場』なんかでは「SHM」(秀英明朝)がよく使われていまして、拗促音をぎゅっと小さくするのが特徴的だなと思って見ていたんですけど、アートディレクターの松田行正さんの好みなんでしょうけど、そうしたことによってもちろん拗促音だということがより判るようになりますし、緊張感が随分出てくるなと思いました。


『デザインの現場』1999年8月号から引用
控えめな「の」、拗促音の小ささ、カタカナの大きさが判ると思います

 カタカナなんかは僕らは「SHM」だったら“JQ”(文字の大きさを5%刻みで拡大できるレンズ)かけて1割ぐらい大きくしてるんだよね。

 カタカナは割と小さい字面ですもんね。

 そうそう。それにカタカナは結構重要な意味を持ってるんだよね。ポイントになる言葉がカタカナには多いから、普通の級数よりも大きくして、促音を小さくして。昔の書体っていうのは、カタカナは全部比較的小さいですよね。昔は小さくてもよかったんだろうけども、今だったら大きくしてやらないとバランスが悪くなっちゃうんだよね。

 特に最近は横文字が多くなってますからね。

 昔だったら「タバコ」とかそのぐらいしかカタカナは出てこなかったんだろうけどさ(笑)、今は時代的に違うからねぇ。

 ということは、文字の大きさを決めるとき、一つは、文字として見たときに大きさをどうするかということと、もう一つは、言葉として重要性を持たせるために文字を大きくしたり小さくしたりという、二つの考え方があるわけですね。

 その文章の中でカタカナがどういう意味を持っているかだよね。どうでもいいんだったら大きくする必要なはいんだけども、今の時代はやっぱりカタカナがかなり重要な意味を持ってきているから、級数を上げるとかしてやらないとね。ひらがなだってそうだけど、「の」はどうしても大きく見えるからね、ある程度小さくするとか。この字は隙間が多いだけに大きく見えるんだよね。

 ぐるっと回る字ですからね。

 懐がずーっと広くてどうしても大きく見えちゃうからね。

 しかも「の」は補助的な役割ですから、あんまり主張してしまっても……って。

 そこでもってスペース食っちゃうからね。だったらその分空間を空けたらかえって読みやすいからね。

 単語と単語の間に「の」が来ますんで、どちらかといえば単語を注目して欲しいと思いますからね。
 今の雑誌では一律に流し込んでしまっていると思うんですけど、この本を作った人がどこを言いたいかを汲んで、気持ちを読み取って文字の大きさを変えるのがよいのかなと。

 (カメラ雑誌の背表紙を見て)“秋のニューモデル”なんていったら、ニューなんかは普通に流し込んでるせいか随分空いて見えるよね。そういうのが気になりますよね。


右が未処理、左は「の」「ュ」級下げ、詰め処理

●自由ということ

 最近の世の中に溢れている書体や組版を見て、どういう風な印象をお持ちかと思いまして。

 (組版のルールブックを取り出して)昔はね、組版のルールから少しずつ変化させていったから比較的楽といえば楽だったけれども、

 既に基本があってそこから変化させるという。

 杉浦康平さんみたいに、天地の字数だけは守ってるけども、その中でもって作業しているとか。印刷で“クワエ”の部分があるからこの部分だけはしっかりスペースとってくれよとか、昔はあったでしょ。今はほら、どこに印刷しても構わないわけでしょ。今は自由だからかえって難しくなってるよね。

 ある程度制約があればその中で……

 何とかやらなくちゃ駄目だっていうんだけども、今は自由でしょ。どこに文字入れても、ぎりぎりに入れても平気でしょ。ましてコンピュータで入れるんだったら何しても自由だから。昔は何ミリを空けなかったら駄目だとか制約があったから、その中でみんなぎりぎりの状態で遊んでたんです。

 今はもうそれが取っ払われてしまって、自分の好きなようにやってくださいよっていう風になってしまった訳ですね。私が感じたのは、自由っていうことは自分の中で何かちゃんとしたものを持っていて、基準みたいなものを持っておいてそこから飛ばしてやらないと、てんでばらばらというか、散漫な感じになってしまうと思うんです。

 みんなそれぞれが自由だったら決まりがなくなっちゃうというか、決まりの中でもって自由をどう使うかがあったけど、今は本当に自由にできるから、色にしても何にしてもさ、無限に出てくるでしょ。昔はほら、2色とか4色とか決まった中でもって印刷して、せいぜい特色を使ってとか、すごい制約があったけど、今は何色を使ってもいい状態ですからねぇ。

 ということは、ゼロから無限大まで全部自分が知ってて使いこなしてやらないと、ちゃんとしたものが出来ないということになってしまいますね。

 写植だったら7Qから100Qで、そのうちJQが入ってきたりなんかして、間々を埋めてきたけども、コンピュータだったらさ、ずーっと無限でしょ(笑)。
 昔は、本文は10Qとか12Qとかある程度の決まりがあったでしょ。その前は9ポとか五号とかってそういう決まりでもって組版したり指定していたけど、写植だったら、四分アキとか、二分アキとか、二分四分とか、せいぜいそんなもんの行間で、端数もいけるんだけど、長体が入ったり入らなかったりするんだけど、本文だったら12Qだとか13Qだとか、それだけの(選択肢)で動いてたんでしょ。キャプションだったら8Qだとか9Qだとか、大きくても10Qっていう、ある程度パチっとしたその人なりのイメージを持って指定していたんだよね。

 具体的にどの数字でっていうベースがあったんですね。

 だから本文がこの大きさだったらキャプションは何級で、中ゴジでとか。その人なりのベースがあったわけでしょ。今はスペースとかの関係で(あやふやになっちゃってる)ところがあるから、級数なんかはズーム(無段階に調整する)でやってるっていう。だから作る人自身も大変だとは思うよ。
 これが13Qで本文組んで、あのときは行間がいくつだったら気持ちよく見えたなとか、そういうのを経験で持ってればね。印字の見本があるからね。(見本帳を取り出す)こういうのが組み見本としてあるから、これぐらいの調子でもって組むかというのがあるんですよ。行間はこれぐらいがいいかな−って。で、ディバイダーなんかで当てながら、これだったらいけるかなとか、これだったら文字数がいくつぐらいかが分かるから、こういう組み方の見本があったわけさ。それに会わせれば大体よかったんだよね。今は級数表も持ってないだろうし。


級数表(GE企画センター製「写植割付スケール」)
プラスチック製の透明な板に級数毎の枠が描かれています


このように印刷物に当てがって使います
ここでは、本文に使われている級数は「10Q」と判ります

 そうですねぇ。たぶん美大ですとか専門の学校を出て、そういう本とかを見ずにいきなりMacに向かってると思うんです。なのでやっぱり最初は本を読んで勉強して、自分なりのどうしたらいちばん綺麗かとか、ちゃんと基準を作るのが大事だと思うんですよね。自由っていうのはとてもいいことですし、自分の思い通りにできることなのでいいと思うんですけど、何かきちんとしたものを作ろうとしたときに自由すぎると、例えば本文を20Qで組んじゃったりとか、そういうおかしな事が出てきちゃうんですよね。

 そうだよね。スペースがあるからってとんでもない大きい級数で組んだりしたら、それはおかしいからね。やっぱりそれ以上の行間は出したら読みにくいっていうのがあるわけでしょ。文章なのに全角も空いてたらちょっと読みにくい。何かの葉書の挨拶文じゃないんだから、というのがね。それでもって結局読みやすい行間っていうのが文章によってあるわけだから、行間をひらいてでもスペースに入れるとなると、読む人が読みにくいですよね。

 作っている人は何とでもなりますけど、今度は読み手のことをちゃんと考えてあげないと、伝わらなくなっちゃいますよね。

 散漫になっちゃうから。今までどおりの基本でもってやれば読みやすい、というのがありますよね。

 基準があってこれが安全ですっていうのがある程度分かるというか、数字にある程度制約があったからこそ基準がきちんとあったんじゃないかなと思いますね。

 文庫なんか1ページに何字取りでやったら読みやすいっていうのがずっと昔からあって作ってたわけだから。問題なのは行間なんかがいちばんね、どうしてもスペースがなかったらしょうがないけど、ある程度あったら読みやすい行間とか、天地があんまり長いのも困るからね、それを2段3段に分けてくれた方が読みやすいとか、細かい字でだらだらっと1段で組まれたら読めない(笑)。文字の大きさによっても段組数を決めてもらわないとね。

 1行読むだけで疲れちゃいますよね。

 細かい字だったら3段組で折り返しがあった方が読みやすいとか、そういうのがあるよね。

 今はそういう風に組む側の配慮がもう少しあった方がいいんじゃないかということですね。

●書体いまむかし

 新聞広告の書体を見てみますと、「ZENオールド明朝体」「丸明オールド」「手書きフォント」を多く見かけます。写植の時のようなかちかちの書体よりも、丸みのあるやわらかい書体が好まれているようなんですよ。そこが写植の時代とはまた違う動きがあるのかなあと感じていまして。

 前(DTPが普及し出した頃)はもっととげとげしかったよね。それが変わってきてるんだ。

 DTPの初期はモリサワですとか、写植を復刻したような書体でしたけど、写植にあった角の丸さがなくなって、図形として四角いものは四角く出ちゃうっていうところが何か今までと違和感があったのかなと思っていまして、その反動でやわらかい書体が好まれるようになったのかなと感じているんですよ。

 活版はね、角が出ても押して使ってたから、紙圧があったからね。今はオフセットになってインクを置くだけでしょ。だから当然そうなるでしょうね。

 そうなると版の状態がそのまま出ちゃうことになりますよね。インクが滲んだりとかせずに。

 写植でも活版でも、滲みがよかったわけだから、それが今は全然なくなって。

 郷愁とはまた別に、若い人がDTPの硬さを何とか和らげようと思ってるのかなと感じているのと、あと世の中がなにかとぎすぎすしている状態ですので、だからこそやわらかい書体を使って少しでも気持ちを和らげたいというところがあるんじゃないかと感じているんです。

 メールなんかはいい加減なやわらかさがあるわけでしょ。そういうのが書体にも移ってきてるのかな。
 ドットで作ってるわけだから(曖昧で)、昔(活版)だとフレームいっぱいにがちっとしていたけど、写研の前の機械(SK-3RY)なんかは文字がこんなに歪んで出てたけどね。だんだん精度が良くなって直線に近くはなってきたけど、それでも丸みがあるよね。そういうやわらかさ(曖昧さ)はドットの文字を見慣れてるわけだから、その方が馴染みがあるのかな。

 慣れっていうのもありますし。文字自体が醸し出す雰囲気が、厳格できっちりしたものから、もう少しやわらかい……若い世代の中では「ゆるい」って言うんですけど、緊張感が少しほぐれたような雰囲気を好むというのが最近の傾向なんですけども。

 文字に相当流行があるからね。昔「こんな文字がいい!」って言っていたのが今は一回も使われないのが沢山あるから(二人笑)。昔なんかは、あそこ(文字道)の伊藤さんなんか、「タイポスの新しい書体出来たよ−!」って言われるけど、最近タイポス使ったことがあるか〜? って。いっときはタイポスタイポスって(もてはやされた)けどね。一回廃れちゃったらもう駄目ね。


21世紀初頭の書体の使われ方
(ことり文字ふぉんと/ゆるく詰め組み+ロゴ丸/ベタ組み


現代の言葉を1970年代初期風に組んでみる
(タイポス/詰め組み+石井太ゴシック体/ベタ組/平体2番)

 時代と一緒に持ってしまいますからね、書体が。「1970年代初期ならタイポス」っていう風に、一緒について行っちゃいますもんね。1980年代ならゴナとか。今でも使われますけど。

 だから本当に、モリサワだってMB101だったらね、「何でも101でやってればいいんだよ〜」ってね(笑)。

 今どこの雑誌を見てもMB101をよく使ってますもんね。

 あのアンバランスさがいいんだけどね。結局時代の流れとして、読み手が見慣れた文字を要求しているっていうことなんだろうね、多分ね。

 写植の文字を「古臭い」って友人の会社の人が言ったらしいんですよ。多分写植を知らない人だと思うんですけど。たしかに今はもう写研の書体はこういう機械(写植機)じゃないと出せないですから、あんまり見ることはないのかなとは思いますけど、「古い」って言った人は、多分、子供の時に見た写研の文字のイメージがどこかにあったんじゃないかと思うんです。
 私自身は古臭いとは……たしかに70年以上前の文字もありますから古いと言えば古いですけど、私はそういうふうに見てなくて、使いようによってはすごく斬新に見せることもできると思うんです。

 僕なんかもう、何年も写植文字を使ってるけども、今でも古いと思ったことはないね。

 組み方次第で文字は生きたり死んだりすると思うんです。

 僕自身はこの書体を使って古く感じたことはないし、「古い」って言った意味は分からないけど、まだまだ写植の文字に対してはね、これからも……まあ、あと何年やれるか分かんないけども、そこまではそのまま使えると思ってるからね。

 多分駒井さんが若い頃に組まれてた組み方と、私が今組む組み方と、同じ書体を使っても随分違うと思うんです。MM-OKL(石井中明朝体オールドかな)がすごく流行したときは限界まで剃刀使ってぎっちぎちに詰めるっていうのが流行っていましたんで、そういうのが当時の格好いいものだと思うんですけど、今は若干緩めに、詰めるときもちょっと空間を持たせて組むといいと思いますんで。

 やっぱり懐の広い書体はアケてやった方がすっと見られるというか、昔はね、何でもくい込んでね、はははは(笑)。

 「美しく」の「しく」がもう、ぎゅーっと詰まってくい込んじゃったりとかしてましたもんね。


限界まで詰められた石井中明朝体OKL
(「ヤクルトジョア」広告から・1973年)

 欧文でもね、詰めていい所と悪い所がある。「tho」とかって並んでいたら、hとoはくっつけたら見にくくなるし、ゴシックであればある程度くっついても別に違和感がないからね、明朝とゴシックでも組み方が違うもんね。明朝だったら幾らでもくっつけていけるんだけど、それはあまりくっつけ過ぎると逆に読みにくいというか、そこは少し空けて。ゴシックだったらHとoはくっつけてやっても形として分かるもんね。だから書体によってもありますし、見る人の年代によっても組み方は変える必要があるよね。
 だから一概に組むっていうのもね、機械で組むとなると均一に美しい組み方をひとつ作り上げたらそれを崩せないよね。これがいいっていう組み方をあえて2種類も3種類もっていう組み方は出来ないだろうね、今後は。

 そこはもうやっぱり自力で、美学っていうんでしょうか、自分の中で「これがいい」っていうものを持って、あとは相手がどういう風にして欲しいかとか、そういうものをちゃんと汲んでやらないといけないわけですね。

 僕らだって今までの手動機だったらさ、「ここちょっとアケてくれる?」って言ったらもう一回打ち直して空ければいいんだけれども、ソフトにしちゃったら難しくなっちゃうでしょ。

 なので組み方一つ取っても時代もあると思いますし、読み手がどういう人かもありますし、伝える側が何を伝えたいか・何をいちばん言いたいかという、色んなものが組み合わさっていちばんよい組み方・美しい組み方があるんじゃないかと思います。

 綺麗にソフトで組んでくれる人がいたらそれに越したことはないよね。僕らの時だったらオペレータの感覚である程度の……まあ、そういったら感覚がみんな違うから十人十色の組み方になっちゃってバラバラになっちゃうけれども、それはそれなりにオペレータの個性であって、うまくやってたんだけどね、今後はソフトで綺麗に組める人がいたらいいよねぇ。本当に、とんでもない組み方のものもあるでしょ。ソフトの出だしの失敗というのがあるんだろうけど(笑)。

 写植の時は最初にある程度設定をして、文字を印字していくものですよね。なのでDTPでも同じように最初に行間とか級数とかベタ組かどうかとかをある程度きちんと設定してやれば、かなり写植に近いものができるんじゃないかと思うんですよね。けど、今は逆にテキストを流し込んじゃってスペースに収まるように文字を伸ばしたり縮めたりしているだけだと思いますので、それが「組みが乱れている」とか「綺麗じゃない」と言われることかと。

 この間(「DTPWORLD」誌で)話したのが、写植の場合はいちばん最初に書体を出して、級数を出して、行間を出して、順番に行くでしょ。そうしたらあと行数とかはその時にセッティングして。とりあえず書体(文字盤)をのっけて級数が出て、そうしたら字詰めがいくらでもって左右が何行詰めっていうのをどんどんしていくでしょ。DTPはスペースがあって、それにも字詰めが幾つになるか、それで最後に書体に行くでしょ。順番が違うんだよって、DTPと写植の設定する順番が違うっていうことを僕は言いたかったんだよね。

 写植と逆の方向から辿っているようなものなんですよね。

 写植だったら見本帳でもって、スペースがあれば、何級で何行かっていうのは、ディバイダーを当てれば分かるからね。DTPだったら最終的に行間がいくつになって級数がいくつになるのって分かんないでしょ。

 スペースに収めるためにソフトのの中で伸ばしたり縮めたりして試行錯誤した結果が、こういう風の設定にしましたという逆に決まるような。もちろんそれもいいとは思いますけど、きちんとしたものを作りたいと思った時は、最初に十分吟味してやった方がよりよいのではないかと。

 この行間だったら読みやすいとか読みにくいとかは大体見当がつくからね。この行間だったら長体1(横比率90%)入れた方がいいのかとか、それとも書体を変えた方が読みやすいのかなあとか。行間があまり出ない時はゴシック系統でもまあいいだろうし、行間が比較的取れるんだったら明朝系の方がいいというのがあるでしょう。やり方の順番が違うんだよね。

 何でもできる上に順番が逆になるので、ちゃんと自分の中で基準を持ってない人が作るといい加減なものになってしまうというか。逆に自分が何かきちんと基準を持ってれば、DTPだろうが電算写植だろうが何だろうがいいものは作れると思うんですよ。

 級数が決まってないと見当がつかないよね。仕上がりがどうなっちゃうか不安だろうしね。最初に指定があれば予測がつくもんね。これは読みにくいや、とか。

 数字のない、基準のない状態でどうにかしようと思うと、それが綺麗に見えるかどうかは分からないですからね。

 前に誰かの組んだものを参考にして、これが自分の基準だって書き込んでおけば、それを当てはめればいいもんね。それでも1級でも大きくなると、また見にくくなるからね。

 絶妙なバランスの上で成り立っているわけですね。

 例えば明朝なんかでも、13Qでもってきちんと見えるものが、14Qや15Qになったりしたら文字自体がぼやけてくるからね。そこはもう、引き締まったものが大きくなる分、文章としては見にくくなるね。

 文字と行間のメリハリがあまりなくなりますもんね。

 文字がちょっと小さくなるぐらいだったらまだ許せるけど、ちょっと大きくなるともう駄目だね。

 行間が狭まると読みにくくなる方向にしか行かないと思うんですよね。

 タイトルは別としても、普通の文章としては、そういうことだね。だから最初から読みやすいと思う級数にある程度こだわった方がいいと思いますね。

 基準をきちんと知って、自分の中で持っておくということになるんでしょうかね。

 自分で読んで読みやすいっていうのを決めておいた方が、あとは遊んでもいいから、級数だけは守った方がいいと思います。

●“美しい書体”とは

 “美しい書体”よく言いますけど、どういうものがそうだと思いますか? この前中村征宏さんにお会いした時のお話では「形が美しく知的雰囲気があるもの」とおっしゃっていたのですが。

 僕はね、好きな書体はね、ゴナも好きだね。まとまりがいいと思う。DTPなんかのさ、ゴナに近い書体が出てるけども、やっぱり駄目だね。ゴナ全体のファミリーはみんな綺麗だね。

 統一感を持って太さも懐も調整してるなって。

 ゴナの欧文と数字は使ったことないけど。まあ、みんな使えって言うからしょうがないから使ってるけども。ゴナの漢字もひらがなも綺麗だよね。

 多分この書体を超えるゴシック体というのはもう出ないと思います。写研以外も新しいゴシック体を出してますけど、どこかゴナを手本にして作りました、っていうイメージが拭い切れないんですよね。

 真似してるんだけど、この間も色々見せてもらったんだけど、やっぱりゴナのファミリーが一番綺麗じゃないかなーと思ってるね。中明(石井中明朝体)はもちろんいいんですけどね、太明(石井太明朝体)は太明なりの、ちょっとした野暮ったさはあるんだけども(笑)、あれはあれで使えばね、雰囲気があるからね。でも中明は大きくしても耐えられるからね。

 広告で100Qで使っても充分に読めますもんね。

 今だったらゴナのファミリーが僕は好きだな〜。
 ……いちばん困るのは「パ」なのか「バ」なのか、゛か゜か分からない書体だね。紛らわしいようなデザインをされると困るよね。枠に入れるのはいいんだけど、゜の位置やなんかがね。やっぱり読みやすいのが一番だからね。

 言葉が誤解されてしまったりしますからね。

 いちばんは、綺麗っていうこともあるけど、文字の並びももちろんだけどね、写植の機械でも文字盤をちゃんとセットしてないと多少がたついたりするし。どうしてもね、画面の表示を大きくできるからちょっと詰め過ぎる癖があるんだよね。

(この特集のタイトルの印字を見ながら)
 この「の」なんかも1Q落としてるんだよね。JQかけてるんだけど。このままだったら「の」が大きくなり過ぎちゃうから。

●若い世代の人たちへ

 先程のお話と重複する所もありますが、今、若い人達がきちんと作られた書体を使ってしっかりとした組版を実現させるためにはどういうことをしていったらよいでしょうか。

 自分の級数を見付けた方がいいやね。あと好きな書体があれば書体と。
 自分がいちばん読みやすい大きさを持って決めていって、他の先輩やなんかが「ちょっと小さいんじゃないの?」って言ったら1段階加減するとか、そういうのを基準にした方が楽じゃないかなあ。なんでもかんでもソフト任せで天地揃えたりしてやるんじゃなくて、自分は何級の何字詰めで、これが限界の長さというのがあるでしょう。あと段組にするんだったら段間を2倍開けるか3倍開けるのが読みやすい基準になると思うんだけども、それが決まっちゃえばあと楽じゃないかねぇ。

 自分で試行錯誤するより、基準を持って当てはめればそれだけでもう、ある程度いいものが出来てきますからね。自分でやりたいことをやるためにもちゃんと出発点を定めてレイアウトを固めておくというか、自分の心の中に持っておくのが大事ということですね。

 何作るのだってそうでしょ。例えば百科事典だったら15Qでは打たないでしょ(笑)。12Qとか13Qとか10Qとかって、他の本を見たら自ずと出てくる。だから同じようなものを真似していけばいいわけだから、自分で考えるよりも先輩が作ったものを真似するのがいちばん楽なんじゃないかな。

 そこから新しいものを作っていけばいいわけですよね。ちょっとずつ変えていってもっといいものが出来ないかと思ってやってみたりとか。新しいものを作っていけばいいですもんね。

 だから真似っこから始めるよりしょうがないよね。

 多分そこがDTPになかったのかなと。写植とDTPで一旦断絶しちゃって、版下を描く人がいきなりMacをやるようになって、そこで切れちゃったのかなと。

 結局、写植みたいな「級数表」を持ってないのが問題かな。(※筆者は持ってます。)

 大きさがイメージできないということですもんね。最終的には紙に出てくるものですから。

 紙に当てがってみれば「これ何Q使ってるんだな」って判るからね。

 先輩がきちんとしたものを作ろうとして努力してきた“結晶”のようなものを見て学んで、自分が吸収したあとで、自由に作れるようになれればいいですね。

 ある程度の所を押さえておけばいいから、あとは真似するだけでいいからさ。写植だって決まりは活版の時代に出来てるんだから、あとはそれにちょっと足していったぐらいの世界だから、活版の人は大変だったと思うよ。基準作るのが。昔の写植の指定だって、15Qって言ったら、「行間二分アキねー」「全角アキねー」で、もう行間は出来たわけだから。写植の級数表を持って、実際の大きさを確認するってことがいちばん大切だね。機械に任せてやってたら、イメージがどれだけ掴めてるか分からないけどね。

 画面ですと紙よりも大きかったり小さかったりするし、見え方が随分違いますからね。

 僕らだって、(手動写植機の)画面の4倍表示でやるとさ、詰め過ぎてるとか空き過ぎてるとか、走査線があるから。これとこれ(2台の写植機)ではこっちではくっついて見えるとか、癖があるからね。

●写植オペレータという職業

 写植オペレータのような組版のプロが少なくなってしまいましたが、ご自身はこの職業についてどうお感じですか?

 幸せだったのかな。今までやれた事がね。それでもって色々なデザイナーさんと付き合ってさ、いい本をやらせてもらったりしたからね、よかったかも知れないね。向こうさんの名前で残ってても、それに関われたっていうことがね。だから色んな人のアイディアを貰っただけでもね、昔やった事は既に完全に忘れてるけれども(笑)、それでもやっぱり一回仕事ができただけでもよかったね。

 色んな人と関わって、その人の考え方ですとか色々なものを貰って、自分のものに少しずつなっていくというのは、財産だと思うんですよ。特に文字を組む人……写植屋さんというのはいろんな人が「これがいいんじゃないか」って一番いいものを目指している人達が集まってくるわけですから、とてもいいお仕事だなぁと思ってきたんです。

 今までやらせてもらったってことはよかったのかなぁと思いますねぇ。多少でも本に関われたことはねぇ。苦労っていうのはなかったような気がするけどね。夜遅かったりはあるけど、打っちゃえばすっかり忘れて終わりだから、「あとは自由にやってくれー!」って。ホントに印刷の一部分だけどもね。

 とても大事で、ひょっとしたらいちばんいい所かも知れませんね。

 そうね。デザイナーさんの予想に反するいい面も悪い面も(笑)。いい面は少しでも、「こんな詰め打ちされてるけど直すの大変だ−!」って思われたかも知れないけど。

 デザイナーさんが求めているもの以上のものをお返しするっていう。

 まあそれがいちばん理想だけどね。だけど「余計なことするんじゃねえよ!」っていうこともあるからね(笑)。

 そうですよね、考え方が違ったりすることもありますからね。

駒 「こんなに詰めるんじゃねえよ、俺は緩い方が好きなんだから」っていう人もいたかも知れないし。

 そういう所も面白いですよね。それぞれの。

 意見の違いってのがね。こっちは善かれと思ってやってんだけどさ、向こうの意見は違ってたりしてね。

 その人と駒井さんとのせめぎ合いみたいな所がけっこう面白かったんじゃないですか? 「あなたはこう思うけど俺はこうなんだ!」とか。

駒 「もう一回やり直せ」って言われたら意地は張れないから、無理矢理直すよりしょうがないんだよね。なるほどって思わなかったらやれないよね。

 自分が意固地になって「これじゃなきゃ駄目だ!」って思っちゃったら出来ないですもんね。

 うちにね、以前新しく入ってきた人がさ、「これこれの指定でやっといてくれー」って頼んだら、「私はこうやりました」って打ってきて。そしたら半日もしないうちに辞めてったけどね。指定は指定だから。この指定でもってやってもらわないと困るわけだから。向こうの意見を通されたらこっちが困っちゃう。

 我を通し過ぎてもいけないですし、かと言って指定通りに組んでも綺麗に見えないことがあったりとか。そのバランス感覚が必要だったんでしょうね。

 僕がさ、指定しに細かく書き込んでるから。その通りにやってもらわなかったら、違うものになっちゃうから、それは何年もかかってそういう指定を作り上げてるからね。それを壊されると指示として成り立たないから。どれだけ忠実にできるか、どれだけいい加減にできるか、その塩梅だよね。何となく分かんないように、分かるように(笑)。

●書体と文字組の魅力

 最後ですが、今、組版がどうであるかという話になってしまったんですけど、個人で書体とか組版が扱えるようになって、裾野が広がったと思います。書体や文字を組むことの魅力についてお聴かせ頂けますか。今までのお話の中で出ちゃったかも知れませんけど。

 最終的には、見てもらう時に、分かりやすく・読みやすくっていうのがいちばん最終的な基本だからね、それに尽きるんじゃないかな。ただただ文字が入ってればいいっていうんだったらね、石ころ並べてもいいわけだからさ。

 例えば書体があって、それをどういう風に美味しく“料理する”かっていうことでしょうかね。食べさせたい人にどうやって美味しく作ってあげられるか。

 “食べたい”人が、色んな年代とか、その人にどうやったら読みやすく伝えるかなというのが、さっきの新しい書体が出たのもそうだと思うんだけど、それは若い人向けに見慣れた文字の延長線で出てるわけでしょ。……速読できるのがいちばんいいんだろうけどね。

 文字本来の役割ですもんね。いちばん伝わりやすい状態というか。

 そう。そうすればより多くの本を読めるだろうからね。引っかかりがあったら疲れちゃうもんね。だから文章の改行なんかもそうなんだけども、いい流れができればいいよね。

 ぱっと見た時にするーっと読めちゃう文書ってありますよね。街でポスターを見た時に目に飛び込んでくるとか。

 駅貼りのポスターなんかさ、電車で見ても分かるっていうものだから、本もやっぱり流れが一番じゃないかねえ。読みやすい本と読みにくい本があるよねぇ(笑)。

 ありますね〜。多分そうやって読みやすくする工夫をするところに文字を組む面白さっていうのがあるのかなと。そしてそれが読んでいる人にすーっと伝われば一番嬉しいですしね。

 変な所に段間をあっちこっち持っていかれたりしたら、どこ読んでいけばいいの? ってね。

 レイアウトとしては格好いいかも知れませんけど、読めないのは。

 昔は矢印でもって、こっち行くんだよって(行末に)入ってたけど、今あまりないもんね。やっぱり順序立ててこの文章はこのように読むんだよっていうのは、流れのいいのがいちばんいいよね、読みやすいってのがね。あとはヴィジュアル的に綺麗だっていうのもあるけどね。綺麗な本だったら見てても楽しいもんね。ちょっとした絵なんか入ってたら「お、サービスいいな」って思うでしょ。だからちょっとした工夫があれば、お洒落だなって思うよね。

 出発点はきちんと伝わるかがあって、それからデザインとかレイアウトがくるんじゃないかなと。

 一つでもいいからお洒落なポイントがあればなおいいね。

 気が利いてるってのが。粋な所が。

 ちょっとした遊びがあってくれたらね。そうだと持ってても恥ずかしくないしね。読みやすくて持ってて恥ずかしくない本がいいやね〜。読まなくても持ってられるっていうのが一番いいけどね(笑)。

 さっきの『エピステーメー』みたいにすごく凝った装幀だったりすると、持ってるだけで嬉しいですもんね。

 そういうことですね。

 ありがとうございました!

【完】

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