連続ドキュメンタリー
さようなら写植。


第6回 6月21日・『さようなら、写植……』

 早起きして写植屋さんへ。すると10時前に到着したにもかかわらず、写植機の解体は既に始まっていた。少しずつ原形を失ってゆく本体を見て、写植との別れをはっきりと感じた。部屋の脇を見ると、社長が打ったという「さようなら写植機PAVO-KY ありがとうSHA-KEN」という印字が吊られていた。これには涙を禁じ得なかった。本当にもう終わりなんだ……。

さようなら写植機PAVO-KY ありがとうSHA-KEN

 YさんやNさん(社長の旦那さん)が解体を進める中、こちらでは文字盤を段ボール箱に収める作業が続いた。時々解体の様子を見ると、普段よく使っていた機能の仕組みやレンズ等が沢山現れた。巨大なカメラのようで、やはり写真植字機である事に改めて気付かされた。次第に写植機は鉄のパネルを外され、ボルトを抜かれ、ケーブルを切断され、機械はバラバラにされ、命とも言えるレンズ群や鏡も取り外され、記念として皆に配られた。無惨な姿である。人の死と同じように、物にも死があるものだと思った。
 午後になると、旧社屋は片付き始め、解体された写植機はトラックで運ばれていった……。心に大きな穴が開いた。自分を象徴するものがなくなってしまったのだ。これからどうしようか、真剣に考えた。
 片付けがほぼ終わった夕方、新社屋で休憩。Yさんが名古屋市地下鉄の制定書体について話して下さった。今まで写研の「ゴナB」を指定されていたそうだが、Macの「新ゴB」も可になったらしいのだ。「写植が今まで残ってきたのは、いい書体があったからだろうね。」と。その通りだと思う。逆に考えると、書体にこだわる人が少なくなったから、写植が衰退したとも言える……。書体という一つの表現方法を、今のデザイナーは失ってしまったのか。(コンピュータに初めから入っている「平成角ゴシック体」等を使うなど、言語道断だと思うのだ。最近やたらと見かけるが。
 夜は近くの居酒屋で打ち上げ。昔の話やら食べ物の話やらで笑いが絶えず。誰かが話していたが、「歳の全然違う人と飲めるのは嬉しい。」勿論知り合えたのもだ。この全てのきっかけを作ってくれたのが写植だった。写植が遺してくれたのは、書体と文字組だけでなく、人のあたたかさもだった。それはかけがえのないもの。感謝しきれない程沢山のものを貰った気がする。別れはとても悲しいが、良き一日になったと思う。ありがとう写植。そして、さようなら。

解 体 ま で の 3 時 間


解体が始まった「PAVO-KY」。中身の機構が見え始め、非常に痛々しい。
まさかこんな日が来ようとは……。


少しずつバラバラに解体されていく写植機。
右手の操作部分がそのまま残っており、あまりにも無惨。


写植機の心臓部である級数レンズ(文字の大きさを変える)があらわに。
上には“JQレンズ”(文字を5%刻みで拡大する)、下には文字盤
(書体のガラス板)を収める「文字枠」(フレーム)が見える。


解体が進み、本体を支えた台だけになる。床には部品が散乱している。
ここまで約3時間。長い長い最期の時間だった。


無惨に解体された電算写植機「サイバートH202」。
とうとう筆者は一度も使わずじまいだった……。


そしてトラックで運ばれた……。
その後、旧社屋も取り壊しとなった。
写植が生きた証が、また一つ消えた。

【完】


→『さようなら写植。』目次
→写植レポート
→メインページ