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●写植との出会い
H SK-3RYっていうんですか、あの手動機を長いことではないんですけど使っていたんですね。今65なんですけど、20歳ぐらいですから45年ぐらい前に関わりましたということなんですね。
当時は名古屋ではあんまり写植屋さんがなくて、大手のところは何社かありましたけど、写研さんとモリサワさんの二派[ふたは]っていうんですかね、私はたまたま写研さんの機械に関わったということなんですけど。
たまたま私が写植に関わるようになったというのが、高校生の時に印刷科というのがありましてね、たまたまそこへ行ってたんです。そしたら職業実習がありまして、友人がT写植さんだと思ったんですけど、そこへ行った訳ですよ。写植の学校は……まだなかったかな……。
的 名古屋で写植を一番最初に入れたのがS高校さん、という風に聞いたことがあるんですが。
H 私の頃はまだなかったと思いますね。活字の時代でしたから。鋳造機とかはあったんですよ。オフセットは石版でしたね。石を金剛砂でこすって……やすりの粉みたいなので表面を綺麗に研磨してそこに字を書いたりしてね、今の校正刷りみたいに一枚ずつ刷っていた時代です。
写植は同級生が研修に行きましてね、面白いよと。まあ話には聞いてたんですよね。これからの仕事じゃないかと。活字拾ってね、やってるよりその方がいいんじゃないかと。
卒業して大学に行くつもりだったんですが、親父にその話をしましたら、「冗談じゃない。仕事やってくれないと困る」という事でね、じゃあその代わりに写植機を買えよと(笑)。非常に特殊な話なんですけど、うちはコピー……いわゆる青焼き屋をやってたんですよ。印刷科へ行ったっていうのも、たまたま……。
印刷って私の中でめちゃめちゃ印象悪かったんですよ。というのは、国道を車で走ってくると夜中に裸電球がついてて夜遅くまで仕事やってるっていうイメージがあったもんですから、行きたくないと思ってたんですよ。で、親父はもう青写真をね、S高校行くと青写真の機械があったり新しいものを教えてもらえたりするから行きなさいと。それで、いい加減ですねえ(笑)、入学して、青写真の機械探したらないんですよ。でっかい印刷の機械とか活字とか、そんなんばっかりで。エライ所へ来ちゃったなあと思ってたんです。
的 印刷らしいといえば印刷らしいですけど、目的のものはなかったと。
H 入っちゃったものは仕方ないですわね。それで卒業して、先程お話ししたように写植やってくれという事になって、それで内輪で揉めた訳ですね。大学行くって言ったら「ダメ」って。私が教えてもらった先生は写真工学の、C大を出られた、一宮に今でもあるんじゃないかな、N印刷さんっていう所の息子さんなんですけど、今なら80ぐらいになっていらっしゃると思うんですけど、かなりその先生の影響がありまして、どうしても行きたかったんですよ、写真をやりたくて。それで親父に反対されまして。離れることになるから絶対駄目だと。それでその代わりに写植をね。何せ、ご経験あるか分かりませんけど、親の跡を継ぐのってイヤなんですよね。何となくこう、子供の頃からずっと見てきて、家で商売やってるとね、遊びに連れてってもらえないし、イヤでしょうがなかったんですよね。
それで「じゃあ写植の機械買ってくれたら」って言って、親父も「買うわー」という事になって(笑)、それで……親父が還暦のときに私成人式なんですよ。明治の人間ですと、いわゆる定年退職じゃないですか。今その歳になってそう思うんですけど。じゃあ、という事で調べたんですよ。モリサワさんが大阪で写研さんが東京と。どっちの機械がいいかっていう事になりますよね。当時は機械の良し悪しとか難しい事は分かんなかったんですけど、大阪よりも東京の方が格好いいかなと思って(笑)。
→つづく
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