2011.7.9(土)第15回電子出版EXPO
於:東京ビッグサイト
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●中村征宏氏の講演「ナール&ゴナ 発想と制作」
11時からは書体デザイナー・中村征宏氏による講演があった。
司会進行は杏橋氏。しばらくは杏橋氏による解説が続く。
ナールが発売されたのが1972年。それ以前の和文書体の状況について。
1924年に写真植字機が発明された。これから約50年間は、明朝体・ゴシック体・教科書体というような基本的な書体しかなかった。
その当時、1964年に写研で初めて制作した書体見本帳の実物を披露される。この頃は「写真植字機研究所」という名称だった。
写研初の書体見本帳『写真植字』(1964年)
書体は当時の社会情勢を反映していて、横太明朝体はテレビ用として開発され、走査線を考慮して横画を太く設計されたものだった。石井丸ゴシック体は機械の銘板のために作られた。太教科書体はNHK教育テレビの開局に合わせ、テレビ放送用の教科書体ということで作られた。ミキイサム氏のカナ書体「アラタ」「ホシ」等も当時はあった。
そのような状況の中、1969年に「タイポス」の文字盤を発売。雑誌の創刊ブームが始まり、『ノンノ』にこの書体が使われた。このタイポスが新書体ブームの火付け役となった。
1970年からは「石井賞創作タイプフェイスコンテスト」が開始。1998年まで15回が開催された。
コンテスト応募用の原字用紙は48mm四方。
石井賞創作タイプフェイスコンテスト用デザイン用紙
この石井賞で第1回の1位になったのがナールだった。中村の「ナ」に round の「アール」でナールと名付けられた。
中村氏の描いたラフを基にナールが生まれた。
中村征宏氏によるナールのラフ
ナールのラフの原本!!
このようにナールに至るまでの書体事情が解説され、中村征宏氏ご本人にバトンタッチ。
中村氏は元々看板店に勤め師事していた。中村氏の書体制作は師匠が描く看板文字が大きく影響していて、字形や感覚的なものの基礎となっている。太い看板文字はゴナUの雰囲気と共通する所があるそうだ。
「師匠 藤田美義 様の文字で、私のゴナUの基になっている感覚です。」
中村氏がナールを発想したきっかけについて。
当時詰め組みは印画紙の切り貼りによって行われ、非常に手間隙のかかるものだった。版下作業に携わっていた中村氏は「もうちょっと時間がかからないような書体が作れないかなあ」と思ったのだという。
「上のブルー部を切り取って字間を詰めたもの。」
正方形ほぼ一杯の文字を作れば詰めなくてもよい書体ができるのではと考えた。ナールのラフ案は中村氏が描いていたテレビのテロップ文字が基になっている。
「ラフ案でグラフ用紙1cm正方形に書いたものです。/テレビ用スーパーテロップ」
ナール制作当時の書体制作の用具と制作手順について。
「面相筆 ガラス棒 溝差し 黒と白のアニメカラー」
「制作手順 鉛筆下書き 縦横線書き コーナー手書き 塗り込み 仕上げ」
ナールは細いウェイトから始まり太いものへとファミリー展開していった。
1970年代の新聞・雑誌広告で流行し、効果的に使われた。
「ナールファミリー」
道路標識にはナールが現在も使用され、ウェイトはDである。
道路標識に使われているナールファミリー
続いてゴナの解説。
ゴナは写研から「特太のゴシック体を作ってほしい」と打診があったのが発端。
当時の特太ゴシック体の倍ぐらいの太さとした。
「当時の特太角ゴシックべた組/ゴナUべた組」
毛筆の抑揚を残した既存のゴシック体に対し、ゴナは図形的な線質とした。
「従来の角ゴシック横線(縦線)/ゴナU横線(縦線)」
フリーハンドでラフ下描きをし、原字用紙に重ねて整形したものを原字とした。
曲線の墨入れは基本的にフリーハンドで行ったが、雲形定規を使う場合もあったとのこと。
「ラフ下書き/下から光を当てて定規を使いシャーペンで写す」
「1. 横線のアウトラインを書く/2. 縦線のアウトラインを書く/3. 曲線のアウトラインを書く/※曲線を雲形定規とロットリングで書くことも」
漢字の画数によって濃度の違いが出ないように、画線の太さを調節した。
「(東)太さ基準。(永)視覚的に合わせる/(東)基準。(機)太めるところ、細めるところを判断しながら調節する」
「ゴナファミリー」
雑誌や新聞の広告で盛んに使われ、東海道新幹線のサインには現在でもゴナが使用されている。「知り合いに会ったような気持ちになる」そうだ。
ここで杏橋氏の進行に戻る。
「ゴシック+中村」でゴナ、「中村+ゴシック+お洒落」でナカゴしゃれ、「中村+明朝+“ダー”(?)」でナカミンダというように名付けられているそうだ。ナカミンダの「ダ」は「ダンディ」だったと思うけど。
中村氏は写研のために19書体を制作し、活動に対し日本タイポグラフィー協会から2003年に第2回佐藤敬之輔賞が贈られている。
杉浦康平氏の『銀花』の話。
元々活字の清刷りを切り貼りして表紙に使っていたが、杉浦氏の要望で大日本印刷に依頼し、秀英初号の活字見本帳を基に1981年に写植書体として発売した。モリサワが2010年に発売した「秀英初号明朝」との比較もあった。
「秀英体比較」右:秀英明朝(写研/1981)、左:秀英初号明朝(モリサワ/2010)
書体は時代を反映している。1980年代中盤の丸文字ブームの際は写研も丸文字書体を発売し、「結構これは売れました」と杏橋氏。
そして最後、日本の写植・DTP用書体の歴史を振り返る。
杏橋達磨氏作「日本の写植・DTPフォントの歴史(概略)」
Twitter 等でもフォント開放について触れられていることもご存知で、「『今年発売』とか出ておりますけど、今回写研が『フォント開放の試み』を始めましたので、今後いつ発売するかあるいはどういう風にするか、皆さんの意見を伺っております。ありがとうございます」ということで講演を締め括られた。
中村征宏氏は日本で最も活躍し貢献してきた書体デザイナーだと筆者は思っている。その中村氏に今一度書体制作について伝えるべく写研の発表の場で登場いただくことは、今後新たな土俵に上がる立場としての写研の自信の現れでもあるし、意地悪な見方をすれば「栄光にすがっている」ようにも解釈できる(中村氏は現在、写研ではなく自社で書体の制作・発売を行っている)。
関係者の方の立ち話が耳に入ってきた。「フォントマニアみたいなのは営業じゃなくて中村氏の話を聞く方が意義があると思ってるんじゃないの」(実際にはもうちょっとキツイ言い方)というような主旨のものだった。その事を中村氏に話したら「わっはっは!」と一笑に付された(笑)。
●写研営業の方に聞く「フォントの開放」とは
講演終了後は写研の営業の方にかなり突っ込んだ質問をさせていただき、丁寧な回答を頂いた(本当にありがとうございました! 質問攻めにして申し訳ありませんでした)。
・リリース方法や時期は一切決まっていない。「今年」というのはあくまで目処であって、今回のアンケートを基に方針を決定していく
・フォントフォーマットは OpenType。数年前から OpenType 化を進めていて、いつでもリリースできる態勢をとりつつあった
・タショニムフォントをベースとしたもので、PC用フォントとしてのリリースに当たり品質改良するかは未定
・「InDesign、Illustratorで写研書体が他と一緒に使える」というのは、他社製の書体と同じようにコンピュータ上で扱うことができるという意味。非常に多くのアプリケーションがあるので動作確認し切れないが、DTPで使われる一般的なアプリケーションでも使えますよということ
・手動写植機専用書体(未デジタルフォント化書体)についても必要があれば加えたい
・新書体の開発は今後の写研書体の使用状況次第。需要があれば開発したい
・手動機のサポートは性能維持部品がないのでしていないが、電算写植機については今後もサポートを行う
・写研の組版言語「SAPCOL」の単体販売もあり得る
・買い取り方式とライセンス方式の併用については非常に多くの要望を頂いている
・twitter 等で取り上げられている事や情報の一人歩きは承知している
(あとは個人的に気になったこと)
・『写植のうた』は仕事始めなど社内の催しで今も使うことがある
・最後の文字盤用書体は……折り返し回答するとのこと(2011.9現在未済)
・写研本社敷地に建築中のものは社屋の増築。現社屋の裏に写研の土地があり、4階ほどのものが建つ。写植の博物館ではないが、和光や川越の工場等にある古い製品をそこへ集めて保管する。今後一般公開したいという意向はあるらしい
これらは写研のいち社員の方の見解であり、写研として正式に発表されたことではないが、総合すれば「写研は今後パーソナルコンピュータ用にデジタルフォントをリリースする用意があるが、詳細は一切確定していない。その方法や書体等は意見を参考にして今後決定したい」ということである。
「写研の書体はデジタル化されていない」という誤った知識(そもそも電算写植機用として古くからデジタルフォントが存在し、1983年には「Cフォント」というアウトラインフォントが発売されている)や、「石井社長は墓場まで写研書体を持っていく」等という確証のない流言(誰がいつ社長から聞いたのか?)等、会社の情報を積極的に出してこなかった写研には様々な憶測が常に付き纏っていた。そういった噂がある程度払拭されたのは、ウェブサイトを持たない写研としては前進したと言えよう。個人的にも胸の透く思いだった。
しかしインターネットが十分に普及し、パソコンベースで様々な業務が行われる現在、企業として公式に情報を発する手段として最も適切で有効なのは何かを考えると、かつてと変わらないやり方では十分な意思疎通や信頼は得ることが出来ないのではないかと思う。今回写研が発表した新しい情報は「写研がフォント開放の試みを行う」ことのみだが、現状ではまた新たな憶測を生むことになるだろう。
●中村征宏氏・杏橋達磨氏と語る写研文字への想い
中村征宏氏とは3年前の講演(→写植レポート「書体デザインの新潮流」)以来の再会で、今回写研が動いたことについての驚きや感想、中村氏がこれまで制作されてきた書体について伺うことができた。
講演前に20分程お話させていただいた。講演と重複することもお聞きしてしまったが、原字作成から文字盤として発売されるまでの過程や苦労、「ナールU」や「ナカライン」といった写研終盤の書体の実情、今回の「フォント開放への試み」への率直な思い等をお話しくださった。
中村氏は私が一番好きで最も尊敬する書体デザイナーなのに、ざっくばらんに楽しくお話しさせていただけるのは夢のようだった。写研がフォントを開放するだけでも夢のようなのに!
また、今や写研の社長室マネージャーとなられた杏橋達磨氏とも初めてお話することができた。
お会いしてみれば気さくでユーモア溢れる方。写植に対して並々ならぬ思いを抱いておられるのは杏橋氏も同じで、「亮月さんのサイトの文章一つ一つに写植への愛が溢れている。嬉しい」とのお言葉を戴いて感無量であった。
お二人には勿体ない程のお心遣いを戴きありがとうございました。
ブース横の衝立には「いま、オープン化めざして shaken」
●フォント開放への懸念
今回写研は「フォントの開放」を謳っていた。
手動機時代には「中明朝と太ゴシックの文字盤は写植機に附属で、他の書体は写植機1台につき1枚しか売らない」という縛りがあった(未確認)とか、Adobe がDTP用フォントとしての書体提供を依頼した際も「書体と組版とは一体である」として断るなどと書体に関して頑な姿勢を採り続けてきた。
その長年貫いてきた姿勢を反故にしてまで書体を開放しなければならないような状況に写研はあるということだ。
しかし写研のこれまでの姿勢には多分に頷ける所がある。
写研の組版システムを導入する際、「写植教室」のように必ず組版に関する基礎的な教育が施されていた。そして『組みNOW』等により組版への認識が共有され、継承され、顧客の過剰なまでの要求もあり、ある程度の品質が保たれていた(酷い組版があったのも承知しているが)。そういった中で写研の書体とともに組版も洗練されていった。
現在のDTPでもソフトの性能向上や使い手の意識の高まりもあり、初期の目も当てられない状況からは随分向上した。
しかし、書体が開放されれば「誰でも使える」状況になるのだ。Word とかで何も知らない人が適当に使ってしまう可能性も出てくる。そういう場合に使われた写研書体は文字組として美しいとは言えない。写研は折角積み上げてきた組版に関しては放棄するということだろうか。
また、先にも書いたが、現在の写研は新書体の開発を行っていない。今後パソコン用に発売されたとしたら、暫くは写植時代を知っている古参の人達や書体に拘る人の需要を満たし、逆に写研を知らない若い世代の人達には新書体として受け容れられるかも知れない。
しかし需要が一巡した後、写研は新しい需要を開拓できるかというと困難だと筆者は考える。なぜなら写研で書体制作に携わっていた優秀なデザイナー達は、軒並み字游工房やフォントワークス等へと移籍し、あるいは独立する等して社外へ出てしまったのだから。恐らく「写研書体」としてプロデュースできるような厳しい審美眼を持った人も遠くない将来には居なくなるだろう。これでは新書体を開発できる態勢とは言い難い。
むしろ、写研が自社システムに固執する間に事実上の標準を奪う程に書体群を充実させ、開発力も持っている他社に分があるのは明らかだ。リョービやタイプバンクのようにモリサワをはじめとした他社へ吸収されてしまうのか、起死回生となるか、それは写研の振る舞い方と使い手の選択次第となる。
こうして筆者にとっては熱すぎる夏の半日が終わった。
写研が今後どのように動こうとしているのか。その断片と周囲の反応を肌で感じることが出来た。あとは、写研の出方を見守るだけだ。
【完】
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