電算写植はこうしてできた
2010.11.27(土)「もじもじカフェ」
於:阿佐ヶ谷「バルト」


●電算写植と聞きつけて

 2010年秋。サイト移転が完了し、その後取り組んでいた文字以外の活動が落ち着いた頃、筆者の心を掴む情報が入ってきた。
 11月の「もじもじカフェ」は電算写植がテーマらしい!
 写植と聞けばどこへでも飛んでゆく哀しい性を持つ筆者。参加受付の開始後間髪を入れず申し込んだ。

 ゲストの藤島雅宏氏は写研で電算写植の黎明期から関わってこられた方。開発までの道のりや仕組み・考え方について語られるということだった。
 手動機ばかり追いかけていた筆者にとって電算は全く未知の世界。当日迄の間に写研の書籍等を参照して予習しておいた。

 11月28日午後、会場である阿佐ヶ谷の「バルト」へ。実は「もじもじカフェ」への参加は2007年に手動写植機がテーマだった時以来だ(「写植レポート」には未掲載)。写植以外に興味がない訳ではないが、岐阜県民の筆者としてはピンポイントで行かないと幾ら収入があっても足りないのだ(泣)。「写植と聞いて岐阜県から来ました」と話すと驚かれた。
 それはそうと、14時半の開場から少しずつ席が埋まっていった。小さなお店が三十数名(推定)でギュウギュウ詰めになった。事務局の道廣さんによると、参加申込の受付開始から36時間で満席になり、歴代2位の早さだったそうだ(1位は「脳から見た人間の文字」)。

●電算写植機誕生まで

 (以降は聴講メモから補完しながら文章化しています)
 写真植字機は1文字ずつ人間が操作して印字していくものであるが、手でしていることを自動化したいという思いがあった。写植機メーカーの他、印刷会社、新聞社、コンピュータ会社が電算写植機の開発を進めていた。

英文用行末計算機「SEAC-1」
英文用行末計算機「SEAC-1」(「もじもじカフェ」藤島氏プレゼン画面より

 藤島氏が最初に開発したのは、英文用行末計算機「SEAC-1」(1962〜1963年、発表するも未発売)だった。
 欧文組版には旧来から「ジャスティフィケーション」という考え方があり、行に並ぶ文字を行頭と行末の両端に揃える組み方をする場合が多い。欧文書体の殆どは文字によって横幅が異なる為、ジャスティフィケーションをする際に語間のスペースの空き具合を調整しなければならない。
 これを欧文書体対応の手動写植機「SK-4E」で行う場合、一度空打ち(印画紙に感光させないで実際の印字と同じように写植機を操作すること)をして行末の残余歯数をダイヤルインジケータ(歯車の目盛り)から求め、残余歯数を各スペースへ振り分けていた。
 そういった空打ちの手間を省く為にSEAC-1を開発したのだそうだ。
 本機は処理部(左)とタイプライターを改造した入力部(右)に分かれていて、マイクロスイッチが仕込まれたキーを原稿通りタイプしたものを処理部が計算、処理部右上のニキシー管に残余歯数等が表示されたらしい。入力部には書体毎に組まれた回路が内蔵されていて、下部のセレクタで選択できるようになっていたとのこと。
 当時は半導体技術が未成熟で、トランジスタではなくリレーによって論理演算や記憶を行っていた。

SEAC-1の演算用タイプ原稿
SEAC-1による演算結果(布施茂『写植教室』p.94より)
原稿をそのままタイプしていき、行長附近で一旦タイプをやめて演算させると本体のニキシー管に語間の歯数と残余歯数が表示されるので、それを隅にタイプしておく。実際に写植を印字する時、残余歯数をスペースに割り振ることで行末が揃った印字ができる(タイプ原稿本文の1行目参照)。

 写真植字に先んじて自動化を実現していたのが活版印刷の組版だった。母型から1字ずつ活字を鋳込んで組み上げるモノタイプ、1行ずつ活字にするライノタイプ、文字種毎に積んでおいた任意の活字を取り出して並べる八光活字のピッカー等があった。
 写研はモノタイプを参考にしつつ、自動写植機として文字盤を縦横に動かす方式を試すが振動と騒音が大きく失敗。加速度がゼロの状態で採字するのが最も安定しているということで文字円盤を高速回転させる方式を採用した。

全自動写植機の文字円盤
全自動写植機の文字円盤(布施茂『写植教室』p.16より)

●電算写植システムの概要

 写研の初期の電算写植システムについて、写真を交えての説明があった。

 入力用漢字鑽孔機 SABEBE(サベベ)

 原稿の文字をデータとしてコンピュータ入力用の紙テープに鑽孔(穴開け)する装置。

SABEBEキーボード
「SABEBE-S3001」キーボード(写研『文字に生きる』p.111より)
左が一寸ノ巾見出しキー、右が文字選択キー。※縮尺は同じではない

 キーボードは現在のものとは大きく異なり、漢字を直接選択するものだった。右手でタイプするキーには1つのキーに12乃至15文字が収められている。左手のキーは写植の「一寸ノ巾」を踏襲していて、右手のキーのうち1文字を選択するようになっている。非常に複雑そうに見えるが、毎分100字の入力が可能だったそうだ。
 ディスプレイ装置は勿論搭載されていなかった。

 テープ編集機 SAPTEDITOR(サプテジター)

SAPTEDITOR
SAPTEDITOR写真(「もじもじカフェ」藤島氏プレゼン画面より

 SABEBEで紙テープに入力された文字データを、仕上がり状態に組版・編集する装置。
 写真の通り、入出力だけでなく編集の指令もテープによって与えていた。
 組版への要求が高度になったことと技術の進歩により、テープの編集はミニコンピュータと組版ソフトウェア「SAPCOL」の組み合わせによって行われるようになったため、やがてSAPTEDITORはその役目を終えた。

 自動写植機 SAPTON(サプトン)

SAPTON-P原理図
SAPTON-P原理図(「もじもじカフェ」配布資料より)

 SAPTONはSAPTEDITORで編集されたデータ通りに高速印字する自動写植機。文字の発生には文字円盤を使っている。
 原理は手動写植機と同じ光学式で、これを自動化したものだった。光源はフラッシュランプで、文字盤上の文字とフラッシュの同期を取るのにはかなり苦労したそうだ。また、文字盤が回転する円盤であるが故に内周と外周とで印字品質の差が出たり、印字速度を速めるためフラッシュランプの光量を強くするにも感材には相反則不軌*があったりするため、光学的な面でも困難が多かったようだ。
 当初は新聞用に導入された。初代の「SAPTON-N」は1960年10月に発表、1965年7月に実用機を発表。1967年10月に朝日新聞北海道支社と佐賀新聞社に初めて導入された(写研『文字に生きる』より)。

*相反則不軌[そうはんそくふき]
 写真等で感材に一定の露出を与えるとき、露出時間と光の強さは反比例の関係にあるが、極端に強いまたは弱い光の場合に反比例の関係が成立しない現象。電算写植の場合は「高照度不軌」(強い光の場合)が該当する。

SAPTON-H原理図
SAPTON-H原理図(「もじもじカフェ」配布資料より)

 新聞見出し用自動写植機「SAPTON-H」(1969年)は4書体切替が可能となっている。そのため回転する文字円盤をさらに公転させる構造になっている。非常に大掛かりな仕組みなので、藤島氏が朝日新聞北海道支社で本機を使っていたところ、書体切替時に「ドーン」という物凄い音がしたという(笑)。

●電算写植機とコンピュータ技術

 電算写植機はその名が現す通りコンピュータ技術に支えられている。それは時代とともに目まぐるしく変化した。
 メモリは、リレー→遅延線→コアメモリ→RAM、ROMと変化した。表示装置は、点示→英数表示管→CRT→液晶と変化した。印字方式も、文字盤を用いた光学式→CRT→レーザー……と変化している。
 写研は電算写植機開発に当たり、当時の最先端技術を率先して導入していたそうだ。その分性能向上が見込め、採算が取れるぐらい売れたからだろう。サベベのキーが1つ1000円したという話を聞いて、時代の違いを感じた。

 藤島氏は光学・回路・機械等全ての領域を掌握し、独力でこれらの機械を開発されたという。その高い知性と情熱に頭が下がる思いだった。

●質疑応答編

 後半は前半のお話を受けての質疑応答。様々なものが出ていたので、聴講メモに残っている限り箇条書きで。

・禁則処理は現在のように行内の全ての字間にスペースを均等に入れ込む方式ではなく、行末の数文字分にスペースを入れ込むという方式で行っていた。禁則処理の判定に必要な文字分のメモリ(リレー)が必要だった。1文字は16ビットなので、16×数文字分のリレーを搭載していた。
 この禁則処理方法は技術的制約だけでなく活版に由来するものでもあり、行頭のベタ組みが崩れず横に文字が揃っていて美しい為藤島氏は好きとのこと。会場の人達は行の全ての字間に均等割り振りする方に挙手していた。

・藤島氏が関わった東京印書館の電算写植システム「ハナマチックシステム」の鑽孔機には、裏に16ビットのコードが付いた文字盤を入力デバイスにしていたが、写研のSABEBEは文字盤方式を採用していない。これは、文字盤を縦横に探すよりも、キーボードをブラインドタッチで入力する方が速かったからだそうだ。

・SAPTONは10年ぐらい(前?)で保守不能となった。

・SAPTONのレンズは写研で設計。機械式の「タイガー計算機」で計算していたそうだ!

・鑽孔テープは当初6単位(ビット)2列のものを使用していたが、のちに8単位となり、そのうち1ビットをパリティとしていた。新聞社用のCO-59コードをSAPTONでも使用していた。その後文字数の増加に合わせ、写研独自の「SKコード」に移行したが、コードの当てはめ(1〜4級)はその時々で変化していた。

・欧文書体は18分の1ユニットだったが、写研の写植機で使う際に「歯」(4分の1ミリ)との兼ね合いで写研で16分の1ユニットに設計し直した。16分の1ユニットは仮名のつめ組み用文字盤にも採用された。

・一般印刷用の「SAPTON-P」(1968年)は1800万円、新聞用の「SAPTON-N5265」(1970年)は1930万円だったが、「よく売れた」そうだ。

 常連さんと思しき方々から活発に突っ込んだ質問がされ、それに対しても的確に答えていく藤島氏。私は電算写植の話を離れた瞬間にチンプンカンプンだった。もっと写研に関する話題が得られるかと思っていたけど。

 ここで終了となり、夜は参加者の懇親会が開かれたので参加した。XMLとかCSSとか? の人が多かったようで、写植に関わっていたという人はむしろ少数派。頂いた名刺を見ると殆どが関連する職業の方で、「写植が趣味なので来ました〜」なんていう変態は自分しかいなかった(いつもの事か)。しかしこうして写植に注目している若者(?)がいるということを知って頂けただけでも大きな収穫だ。「電算写植っていうから懐かしい話が聞けるかと思って参加した」というSK-3RYのオペレータだった方と手動写植の良さをしみじみ語り合った。かなり飲んだので訳の分からない事を話したと思います。皆さんすみません!


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