書体のはなし 石井太ゴシック体

●写研/石井茂吉 1933年

●前身・仮作明朝体

 1924年、石井茂吉・森沢信夫両氏が発明した写真植字機。試作第1号機の文字盤には市販活字の清刷りからとった文字が使用されたといいます*1
 しかし、その印字品質は惨憺たるものでした。光学系の未熟さもさることながら、金属活字の清刷りを使用したことも原因でした。金属活字の書体は原寸での使用が前提であり、拡大縮小を想定していないからです。そのため、写真植字機専用の書体を制作することになりました。
 明朝体を何種類も制作するのは非常に手間と時間がかかるため、一つの種類に絞るにあたり、石井氏は「先ず中庸なものを最初に作るべきだ」*2と考えました。築地活版製造所の12ポイント明朝活字を印字したものを青写真で4倍に引き伸ばし、それに墨入れをして修整したものを原字としました。これが写真植字機用最初の書体「仮作明朝体」です。旧日本陸軍陸地測量部在籍の4人に墨入れを依頼し、石井氏が手を加えて完成させたといいます。1930年のことでした。旧日本軍等で細々と使用された模様です。

●写真植字用の新しい明朝体を

 しかし、この仮作明朝体には欠点がありました。
「文字の書体が活字明朝と違っており、しかも書体そのものが洗練されていないから、印刷した時に力が足りない。また文字の太さにもかなりのムラがあった。」*3とのことでした。先述のように原字制作を他人に依頼したのが仇となり、結局は石井氏自身が3年の歳月をかけて描き直すことになりました。
 先の築地活版の12ポイント明朝活字を骨格とし、写真処理を考慮して横画を太目に、縦画を潰れにくくするため細目にし、起筆部に打ち込みを加えました。毛筆の起筆・終筆の感じも加えたといいます。
 石井氏は制作当初を振り返って「私の文字は初めからこういう文字を作りたいという意図でもって、出発した訳ではないのです。」*4と述懐しています。その制作の中で醸成されていった設計思想に基づき(→石井太ゴシック体の記事参照)「筆書きの持つ優美さ、柔らかさといったものを文字の上に表現したかった」*5と石井氏は考え、こうした写植用として相応しいデザイン処理を行ったのです。それはこの書体が背負った「写植初の明朝体」という使命には必然のものでした。結果、非常に洗練されすっきりとした新しい明朝体が出来上がりました。当時は単に「明朝」と呼称し、これが後年になって「石井中明朝体」(MM-OKS)と呼ばれるようになった書体です。

●ウェイト展開で戦災復興と高度成長に貢献

 第二次世界大戦で活版印刷工場が多く焼失したため、昭和20年代は印刷技術の復旧が急がれました。その中で脚光を浴びたのが、印字に際して場所を取らず多くの資源を必要としない写真植字でした。
 その中で石井氏は書体制作を進めていました。従来の明朝は小Q数ではどうしても潰れてしまうため、細い明朝体の需要が高まっていました。文字のデザインに戦後の明るい世相を反映させるため仮名を石井氏独自のものに一新、当時の劣悪なオフセット印刷の環境にも対応した設計を行うという命題の下、3年以上をかけて制作、1951年に「石井細明朝体」(LM-NKS)が完成しました。当時の名称は「細明朝」。従来の明朝体は「中明朝」と呼称されるようになりました。
 平凡社『児童百科事典』(1951年)に完成したばかりの「石井細明朝体」が採用され、大修館書店『諸橋轍次大漢和辞典』(1954年)では5万に及ぶ見出し漢字が制作されるなど、写植の明朝体の代表格となりました。画線が繊細な強弱を持ち*6、活字書体とはまた異なる優しい字面は“石井文字”として多くの出版印刷関係者から賞賛され、書籍や教科書等に採用されてきました。

 戦後日本は高度経済成長を迎え、ポスターや新聞広告、パンフレットといった印刷物が急増するとともに写植が使われるようになり、大見出し用の明朝体が求められました。その為石井氏は、1959年に「石井太明朝体」(BM-NKL)、1960年に「石井特太明朝体」(EM-NKL)を発表しました。
 また、1953年に始まったテレビジョン本放送は写真植字にも大きな影響を与えました。テレビ字幕でも使える明朝体をという要望に応え、画面の走査線で横画が見えにくくならないように太くしたものが、1959年に発表された「石井横太明朝体」(YM)です。

 1960年代終盤からは大量の書籍組版に対応すべく、自動写植機が本格的に稼働するようになったため、それに相応しい仮名を写研が制作しています。従来の NKL に比べ抑揚を抑えて画線の太さを均一にし、懐が広くベースラインが揃った新しい仮名「石井細明朝体縦(横)組み用かな」(LM-KPT・LM-KPY)が1970年に発表されました。

●“築地スタイル”と“MM-OKLブーム”

 石井明朝体ファミリーの仮名には石井氏独自の“ニュースタイルかな”と、先述した築地活版製造所の12ポイント明朝活字の流れを汲む“オールドスタイルかな”とが存在しています。

 後者の“築地スタイル”ともいえる仮名を持つ明朝体は1970年代に爆発的にヒットし、新聞・雑誌広告やポスターなどで非常に多く見られました。
 中でもこの「石井中明朝体オールドスタイル大がな」(MM-OKL・1955年)はメインコピーからリードまで広く使われました。極めてシャープな輪郭で洗練されているとともに、仮名文字が持つ美しく柔らかい曲線が、メッセージの送り手の言葉を柔らかく、あたたかく伝えるような印象を持つためだと考えられます。そして、詰め印字をした時には均整のとれた美しさを放つため、デザイナーやオペレータにも使い甲斐のある書体として重宝されていました。“MM-OKL”というコード名を懐かしく思われる方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 写研はこの築地スタイルの需要の高まりを受け、「グラフィックな書体が多い中で、文字本来の味をもつ OKL に新しい価値や新鮮なイメージを見出しているデザイナーなどの要望に応えた」*7として、1972年に石井細明朝体用・石井太明朝体用・石井特太明朝体用の「オールドスタイル大がな」を発表しています(それぞれ LM-OKL、BM-OKL、EM-OKL)。

 一方、モリサワが制作した「太明朝体A1」(1960年)も MM-OKL と同じく築地スタイルをとった(石井を模した?)明朝体でした。しかし性格は若干異なり、ややもったりとしていて画線の配置にもモリサワ独自の味付けがしてあります。MM-OKL 程の緊張感はありませんが、人間臭く親しみを感じる明朝体として使いどころがあり、共に長く使用されてきました。

 *1 写研『文字に生きる』p.14
 *2 同上 p.17
 *3 同上 p.24
 *4 同上 p.16。初出は『プリント』昭和37年3月号
 *5 同上 p.24
 *6 石井明朝体NKLの仮名が持つ繊細な強弱は、小Q数で印字した際に読み手にちらつきとして受け取られることがあり、書体設計に於ける現代的な観点(読みやすさ等)から述べれば、必ずしも最適とは言えないとする向きもある。それについてはこの書体が生まれた背景や使命を参酌されたい。
 *7 写真植字機研究所『写研』26号 p.52〜54

【管理人のコメント】

 現在ではDTPの普及で見かける機会が減りましたが、この書体を見ると孤高の美しさを湛えていると筆者は感じます。
 築地スタイルの書体には確実な需要があり、パソコン用にも類似の書体が発売されてきました(エイワン「ZENオールド明朝-R」、モリサワ「リュウミンKO」「A1明朝」、ニィス「S明朝体」、大日本スクリーン製造「游築五号仮名」、フォントワークス「筑紫Aオールド明朝」等)。しかしながら、石井明朝体OKLに敵う完成度のものはないと思うのは私のひいき目でしょうか。

●テレビ字幕の類似書体について

 テレビ用の字幕で、一見石井太明朝体OKLのような仮名文字を見ることがありますが、これは「ゴナ」の回でも取り上げたラムダシステムズ社の字幕用フォントです。直線的で字面の大きい漢字とミスマッチで、これもあまりいい気はしません。そもそも、オールドスタイルの仮名が字幕として読みやすいかに疑問ですが……。

●ファミリー

●は手動写植機専用書体です。

書体名/書体コード
発表年
石井細明朝体 LM-NKL(ニュースタイル大がな) 1955
石井細明朝体 LM-NKS(ニュースタイル小がな) 1951
石井細明朝体 LM-OKL(オールドスタイル大がな) 1972
石井細明朝体 LM-KPT(縦組用かな) 1970
石井細明朝体 LM-KPY(横組用かな) 1970
石井中明朝体 MM-A-NKL 1970
石井中明朝体 MM-A-NKS● 1951頃
石井中明朝体 MM-A-OKL 1955
石井中明朝体 MM-A-OKS(オールドスタイル小がな) 1933
石井太明朝体 BM-A-NKL 1959
石井太明朝体 BM-A-OKL 1972
石井特太明朝体 EM-A-NKL 1960
石井特太明朝体 EM-A-OKL 1972
石井横太明朝体 YM 1959

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