2014.6.24(火)〜29(日)株式会社文字道主催
於:東京都文京区根津 Gallery cafe 華音留
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折り畳み傘の持ち主を捜しています |
「moji moji Party No.7 今田欣一の書体設計 活版・写植・DTP」の会期中、6月28日(土曜日)の13時半〜17時半頃(今田さんのトークイベントが始まる前から終わるまで辺り)、会場のギャラリーの入口の土間に置いてあった私の折り畳み傘が間違って持って行かれてしまいました。
私の折り畳み傘は黒色で折り畳んだ状態の長さは約23cm、かなり小型軽量の部類です。
必要があって買ったばかりの傘だったので大変困っております。返していただけませんでしょうか。
そのため、会場の土間に最後まで残された折り畳み傘の持ち主様を捜しています。私の傘はその隣に置いてあったので、間違って持って行かれたものと思われます。
忘れ傘の位置と忘れ傘全体(それぞれ画像クリックで拡大)
忘れ傘は本体・把手・リングともに紺色です。軸はアルミ製です。
亮月写植室にて保管しております。
心当たりのある方は、までご連絡ください。
どうかよろしくお願いいたします。 |
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●きっかけは前回の展示で
2014年4月の終わりのことだった。
恒例の文字展「moji moji Party No.6〜写植機体験展〜」の会場には写植や写研に所縁のある大勢の関係者が集まっていた。
その中には写研で書体制作に携わられ、現在でも書体設計を続けられている今田欣一さんの姿があった。筆者にとってはこの時が2度目のご対面。公にされていないエピソードを沢山伺うことができた。
主催の株式会社文字道・伊藤さんと今田さん、筆者が話をする中で、「前の会社に勤めていたら、もうすぐ定年なんですよね。」と今田さんはおっしゃった。そこで伊藤さんが「じゃあ、次回の moji moji Party は今田さんの還暦記念をやろうよ! 6月末に計画していたからちょうどいいですよ。やりましょう!」
こうして、伊藤さんが半ば押し切るような形ではあったが、今田さんも折角の機会だからということで「(仮称)今田欣一還暦展」の企画が動き出した。
会話の場に居合わせたからか、筆者もお手伝いさせていただくことになった。
ひとつは、今田さんが写研在籍時代に制作に携わられた書体を手動写植機で印字し、印画紙を納めること。
(写真は失敗した印字を保管してあったものです)
今田さんから指定原稿を頂き、それに従って手動写植機「PAVO-JV」で印字した。
切り貼り一切なしの組み打ち。座標記憶や送り量のセットといった基本的な操作には慣れたし、座標の数値インジケータがあるので印字位置の間違いは殆どなかったが、三・四級漢字を探しているうちに今どこまで印字したかを忘れていたり、欧文の送り量を間違えたりと何度も失敗し、一日がかりだった。
ぴかぴかの写真用印画紙「フジブロWP FM4」に打ち上がった真っ黒な文字。
印刷の部品として使われる写植用印画紙とは全く異なる質感の、「作品」と言ってもよいようなしっとりとした文字たちが並んでいた。
もうひとつは、公式な録音物が発見されておらず、今田さんの記憶にしか残されていないという、幻の“写植ソング”の復元。
(一部画像処理してあります)
4月の moji moji Party で『写研音頭』の詳しいお話を今田さんから伺い、後日楽譜を頂いたので筆者が編曲を施して今田さんに聞いていただいたところ、気に入っていただけたようで、続いて3曲の楽譜を頂いたのだ。2曲は楽譜が現存、2曲は今田さんが記憶だけを頼りに採譜されたものを送っていただいた。
いずれの曲も編曲して VOCALOID の「初音ミク」に歌ってもらった。(余談だが、Mac に対応した「初音ミク V3」を購入したばかりだったので、よいタイミングだった。)
校正用の音楽データをやり取りして今田さんに監修していただきながら、完成度を高めていった。
本展が始まるまでの1ヶ月半、これらの活動にかかりきりで筆者の日々は過ぎていった。締切のプレッシャーを感じながらも、楽しみながら制作することができた。写植研究に押されて影が薄くなっていた自分の趣味が人の役に立つことはとても嬉しかった。
●小雨の根津を彩るギャラリーで
2014年6月28日の昼過ぎ。小雨の中、根津に到着。
3度目だった。地図がなくとも何となくその位置関係が分かるようになっていた。私にとってここは東京での拠点のような、心身に馴染んだ感覚になり始めている。
会場の「ギャラリー華音留(かおる)」 が近付くと、人の出入りと、何度も聴いたことがある音楽に気が付いた。『写研音頭』だ。その場所に、着いたのだ。
前回4月とは異なり、会場の入口には木製のテラスが設えられ、プランターが彩りを添えていた。その入口の横では……
お手製の看板が出迎えてくれた。この会場の中のほぼ全てが今田さん所縁の展示なのだ、ご本人がいらっしゃるのだと思うと、気分が昂揚した。
いつものように、こっそりと会場へ入る。
(写真は翌29日に撮影したものです)
「こんにちは……」
「亮月クン! よく来てくれたね!」
いつものように主催の株式会社文字道・伊藤さんがあたたかく迎えてくださった。そばには今田さんのお姿もあり、再会に感激したとともに、この展示会に関わらせていただいたことに深く感謝した。
●書体設計師・今田欣一の礎
ご挨拶を終えてから、会場をじっくり鑑賞した。
会場の入口から反時計回りに、今田さんの書体設計のあゆみが展示されていた。
今田さんが1973年にミニコミ誌の題名としてレタリングした文字を基にした「貘」という書体を樹脂活字にしたものが展示されていた。この活字は2014年6月8日に鋳造もとい、3Dプリンターで“印刷された”ものである。(→文字の厨房 初号活字をつくろう! June 2014)
活版印刷は写真植字より古い技術だが、このように先端技術と融合した試みが始まっている。それに今でも活版印刷用の機材が新造されている。3Dプリンターの出現によって、今田さんが若かりし頃触れていたという活版と思いがけない再会を果たしたことには、えも言われぬ感慨深いものがある。
自作の書体をアナログ・フォント化して使用したいと思った場合、もはや写真植字機用の文字盤は制作できない。リバーサルフィルムに原字を写し込んで、簡易文字盤の「四葉」で使うのが関の山である。そもそもその為に写真植字機を使わせてもらったり、個人で所有したりすることが非常に困難である。
写真植字の技術は寡占され続け、その上電子化と歩みを共にした。その時から写植は、このような超長期的な展望を約束されなくなった、と見ることもできる。何とも皮肉だと思った。
1977年、今田さんが写研に就職して初めに研修で描いたという「石井細明朝体」。ここから今田さんの職業人としての書体設計の道が始まった。
企業での書体制作においては複数人が原字を担当することになることがある。ひとつの書体を作るに当たり、人によって癖や品質のばらつきがあってはならないのは当然のことである。しかし、それを較正し、一定の品質を得られるようにするのは並大抵のことではないし、制作者の素養も必要である。残された原字用紙から、今田さんの苦心の跡を感じ取った。
→[文字の厨房] 第3回 石井細明朝体(漢字)
●既存書体を写研機で
今田さんは『広漢和辞典』用の「石井細明朝体」の改刻、「石井中ゴシック体」の品質改良(MG-KL・MG-KS→MG-A-KL・MG-A-KS)を経て、次は既存の書体を写研の手動写植機で使用するための制作に携わられた。
1978年から1980年にかけて「ヘルベチカ」「オプチマ」「ユニバース」、「秀英明朝」「かな民友明朝」「かな民友ゴシック」を制作された。
当時今田さんはまだ20代。既存の書体を全く異なる仕組みで同等に印字することに対しては非常に多くの難題があったという。今田さんのブログに詳しく書かれているので、ぜひ参照していただきたい。
→[文字の厨房] 第5回 ヘルベチカ(写研バージョン)
→[文字の厨房] 第6回 オプチマ(写研バージョン)
→[文字の厨房] 第7回 ユニバース(写研バージョン)
→[文字の厨房] 第10回 秀英明朝(漢字)
→[文字の厨房] 第1回 かな民友明朝
→[文字の厨房] 第2回 かな民友ゴシック
額装された印画紙上に再現されたそれらの書体は、ただただ美しかった。そこに至るまでには多くの人達の苦労があったということは、言葉にしてしまえば当たり前のことではあるが、作られたご本人がおられるこの場では、一層説得力を持つものであった。
僭越ではあるが、「写植印字 亮月写植室」と表示していただき、とても光栄だった。
●斬新な書体が開花
その後、今田さんは斬新な書体を生み出していった。
「ボカッシイ」「紅蘭細楷書」「艶」「ゴカール」「いまりゅう」「今宋」。そして発売されなかった「紅蘭細宋朝」(鉤括弧のリンク先はいずれも今田さんのブログ「文字の厨房」の該当記事)。従来にはなかった発想で「石井賞創作タイプフェイスコンテスト」では数多く受賞。いち書体設計者として、また写研の書体開発の中核を担う存在として、力強く活躍された。
たいへん貴重な「ボカッシイG」のパンフレット
「いまりゅうD」のつめ組み用文字盤(14/16em送り対策後版)
壁に展示されている印刷物は、今田さんの個人誌『REJOICE!』から、制作された書体が使われているページを抜萃したもの。文章から今田さんの内面に触れながら、美しい文字たちに見入った。今田さんの書体は独自の魅力を発揮しつつ、見ていると気持ちが落ち着く。
●写研最後の打ち上げ花火
写研が唯一一般のパーソナルコンピュータ用に開発した「平成丸ゴシック体」。今田さんは和字(かな)書体の設計を担当された。
平成書体は明朝・ゴシックともざっくりとした押しの強い字面だが、この丸ゴシックだけは毛色が違う。あまり主張がなく穏やかな声が聞こえてくるような印象だ。今更ではあるが、あらゆる情報機器のために広く普及させるという目的には、このような中庸なデザインの方が理に適っていたのではないかと思う。
この書体を使って印字してあるのは、写研社内の催しで踊っていたという『写研音頭』の歌詞。今田さんも作曲で関わっている。
今から見れば能天気とも思える歌だが、今田さんの記憶にしか残されていなかったこの歌が会場に流れているのを聴いていると、再び多くの人の耳に触れることができるようになってよかったと思った。この歌もまた、写研そして写植の歴史の一部なのだ。
先に述べたように、この歌を含め写研関連の曲全4曲を復刻して会場で公開するに当たり、『初音ミク「写植のうた」を歌う』と題して、編曲と VOCALOID「初音ミク」による歌唱で関わらせていただいた。
写研音頭が生まれたのが1992年、平成丸ゴシック体は1993年。今田さんと写研にとって、大きな変化が訪れようとしていた。
写研最後の手動写植機用文字盤を残した書体「今宋」。今田さんが制作した書体が写研から発売されたのも、これが最後だった。このメインプレートは1993年4月製。今宋の文字盤は現存数が非常に少なく、まして手に取って観ることができることは極めて貴重だ。筆者もこの書体の文字盤を見たのはこの時が初めてだった。
●写研を退社、デジタル書体の時代へ
今田さんは1996年8月に写研を退社、翌1997年2月、東池袋において「有限会社今田欣一デザイン室」を設立し、「吉備楷書」「吉備隷書」「吉備行書」の試作によって新たなスタートを切った。 2001年に事務所を移転、現在に至るまで多数の書体設計に携わられた。
壁面いっぱいに掲げられた、今田さんのデジタル書体。「欣喜堂」「ほしくずや」ブランドのオリジナル書体やフォントメーカーからの依頼等によるカスタムメイド書体など、全108書体。古い書物に使われていた書体の復刻から「あたらしいスタンダードの構築」まで、縦横無尽に活躍されているのだ。
今田さんの書体を使って作られた書籍群。雑誌から辞典まで、用途は幅広い。
NHKの連続テレビ小説『おひさま』のロゴに使われた「きざはし」。
今田さんの書体は、今や日本人の暮らしを彩るのに欠かせない存在となった。
2011年の元旦、全国の家々に届けられた蒼井優さんの年賀状風チラシ。今田さんの書体が1億人以上の目に触れた日……かもしれない。
懐かしい冊子が展示されていた。
これまた蒼井優さんがメインキャラクターだった2006年の「ナツイチ」(集英社文庫 夏の一冊)。筆者も当時店頭で貰い、今でもどこかにしまってある筈だ。
このころの蒼井さんはとても……と話題が外れそうになったが、夏の暑さと読書している様子の涼やかさとの対比を想起させるような抑制の利いた文字遣いが心地良い。これも今田さんの書体だったとは。
展示を夢中になって鑑賞していたら、近くの「不忍通りふれあい館」でのトークイベントの時間が迫っていた。少し早めではあったがそちらへ向かうことにした。
→つづく
→写植レポート
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