亮月写植室

moji moji Party No.7 今田欣一の書体設計
2014.6.24(火)〜29(日)株式会社文字道主催
於:東京都文京区根津 Gallery cafe 華音留


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 14時。会場を「不忍通りふれあい館」に移し、今田欣一さんのトークイベントが始まった。会場は予約だけで既に満席だった。特に司会の人がいる訳でもなく、今田さんご自身が進行された。

今田欣一の書体設計・トークイベント
(一部画像処理しています)

●「活字書体設計師・今田欣一」の誕生

※以下、筆者がこのトークイベントで聴き取った今田さんのお話の趣旨です。内容の正確性は保証できませんがご了承ください。文中の括弧は筆者による補足です。

 今田欣一と申します。
 中国では書体デザイナーのことを「字体設計師」と書きます。これが気に入ったので肩書きにしたいと思いました。日本では字体というと違う意味に取られるので、「活字書体設計師」と名刺に入れるようにしました。

 前半は「明るく楽しい写研のはなし」ということで、昔話をしたいと思います。(一同笑い)
 写研に入るまで、どうして書体デザインに興味を持ったかについて話したいと思います。
 小学生の頃は漫画を描くことを趣味にしていました。『漫画の描き方』という秋田書店の本を参考にしていましたが、描く能力があまりなかったようです。それで、タイトルを描くのに興味が湧き、日本美術通信学園で小学校からレタリングを習い始めました。今会場にいらしている佐藤豊さんは賞を取って優秀でしたが、私は最低の6級という悲しいスタートを切りました。
 中学生の頃は、文章なら何とかなるだろうと思い同人誌を始めました。手書きを回覧していましたが、ガリ版の本を作るようになりました。(ガリ版の本を会場に回覧)
 大学3年の頃、1975年が写研創立50周年でした。そのとき2曲作られました。ひとつは写研の社歌、もう一つは『写植のうた』です。レコードがユーザーに配られまして、毎年写研から送られる手帳に楽譜が載っていました。
 レコードを亮月クンが探してきて耳でコピーして初音ミクに歌わせてくれましたので、それを聴きながら、体勢を整えたいと思います。(一同笑い)
(写植のうた再生)

◉第1部 明るく楽しい写研のはなし

●写研埼玉工場に勤務

(写研埼玉工場の写真がスクリーンに投影される。写真は今田さんのブログの記事「[文字の厨房] 特別編 写植文字盤のできるまで」の〔追記〕を参照いただきたい。)
 去年撮影してきました。メインビルの看板は私が在籍時代に原寸で描いたものです。今でも残っています。低い所が第1工場、後ろの古くて白いビルが第2工場です。メインビルの一番上、6階に開発部という機械の設計部門がありました。今はどうなっているか、辞めてから20年以上経っているので分かりませんが。5階にシステム技術部というソフトウェアを作っている部署がありました。
 低い建物では手動機の台を作っていました。会場に元写研の柿田さんがいるので確認しながらいきますけれども。
 白い建物の3から5階ぐらいが文字盤や文字の設計部門、4階がクリーンルームといって、文字盤の製造過程をやっていました。3階は、時代が後になりますが、デジタル・タイプを作っている場所でした。5階の半分ぐらいが書体設計その他管理部門があった所です。写研の埼玉工場の中で機械を作っている所、機械を設計している所、ソフトを作っている所、書体やフォントを作っている所が全部あって、一括して作っていました。
 ひとつのエピソードですが、朝一番でラジオ体操をしていました。全員で800人ぐらいいたので、ひとつのビルでジャンプをするとすごくビルの設計上良くないと、設計をした竹中工務店からクレームがつきました。それでジャンプの所だけ何もしないということになりました。会社の運動会があったんですけど、ジャンプの所だけ皆何もしないでいました。(一同笑い)
 メインビルの反対側に厚生棟という建物があって、2階が更衣室、3階4階が社員食堂でした。2階の更衣室で全員作業室を着ます。旋盤やら組み付けやらをやっているセクションも開発をやっているセクションも全部同じなので、一律の作業服を着ていました。
 という訳で、写研埼玉工場ツアーを終わりまして。(一同笑い)

●写研の愉快な仲間たち

 次は、写研文字開発関係の愉快な仲間たちということでお話します。
(写研の方や今田さんの写真がスクリーンに投影される)
 写研の仕事をしている私です。写研の文字制作関係の内部の写真ですね。多分こういう写真が外に出ることはないと思うので、初公開だと思います。会社の中の写真を撮ること自体が禁止と言えば禁止なので、珍しいのでは。今日は晒しちゃいます。知ってる人も沢山出てきます。
 橋本和夫さんです。写研の全ての書体のプロデュースをされ、今はイワタの顧問をされています。今度『デザインのひきだし』という雑誌で「もじ部」の記事になります。橋本さんの功績については字游工房のホームページの『文字の巨人』を見てください。プロデュースや「本蘭明朝」が知られていますが、個人的には「紅蘭楷書」の和字(かな)や「曽蘭隷書」の和字がすごくてしげしげと眺めるほどでした。写研出身の文字制作関係にとっては神のような存在です。
 写研の社員ではないですけど、ゴナやナールを作った中村征宏さん。隣が奥さん、抱えているのが愛犬です。ご自宅の前だと思います。社員と同格以上のような存在で、1970年代といえばナール、1980年代はゴナといった感じで、ゴナがないと何も始まらないという、写研の代名詞のような書体を作っていただいた方です。
 字游工房初代社長の鈴木勉さん。もう亡くなって15年ぐらいが経ちますが、私が写研に入社して3年目ぐらいから退社されるまでずっと上司で一緒にやってきた関係です。写真は社内の新入社員の歓迎会か何かで鈴木さんがちょっと照れてるシーンだと思います。鈴木さんについては、詳しくは『鈴木勉の本』を見てください。一部が字游工房のホームページにあります。
 今日おみえになっている字游工房の柿田さん。関谷さんは新入社員の時に1年ぐらいお世話になって、一緒にゴナEとゴナOを作りました。秀英明朝には複雑ないきさつがあって、上司は鈴木さんなのですが、書体を作るのは関谷さんの下でやりました。鈴木さんの所でやっていたことを関谷さんの所へ持って行って、関谷さんが名目上の……って言っていいのかな、上司で作った関係です。
 この人は有名なので何も言わなくても分かると思いますが、今の字游工房の社長の鳥海修さん。「文字塾」を主宰していて、今、同時刻にやっている筈です。こちらの方は岡田さん。本蘭明朝ファミリーをまとめた方です。当時は20代後半ぐらいでした。今思い出すと、私が入社した時、かなり歳上のおじさんがやっているかと思って恐る恐る入りましたが、実際には3分の1ぐらいは年下でした。
 こちらは小林章さん。私の家で何かをして遊んでいます。ドイツの元ライノタイプ、今はモノタイプのアートディレクションをやっておられます。面白い話はいっぱいありますが、今晩の懇親会の時にでもお話したいと思います。
 写研の石井社長。この方が社長です。タイプフェイスコンテスト第10回の写真ですが、永井一正さん、杉浦康平さん、浅葉克己さん。今思うと錚々たるメンバーが審査しているなと思います。こちらはおまけで小塚昌彦さんと篠原さんです。
 以上、写研プラスαの愉快な仲間たちでした。

●本蘭明朝Lについて

 話は戻りますが、1975年に「本蘭細明朝体」(現在の「本蘭明朝L」)・「ゴナU」・「大蘭明朝」が出来ました。
 本蘭明朝には写植機の歴史が絡んでいます。文字盤を使う手動機が第1世代機です。
 それから第2世代機は「サプトン」という自動機で、円形文字盤を使いました。展示会場に完全版コピーがあります。この文字盤は機械の中に組み込まれていて、入力機が別にあって、鑽孔テープに入力したものを機械にかけて円盤が高速回転して文字を拾います。
(電算写植システムの概略については、拙レポート『電算写植はこうしてできた』も参照いただきたい。)

今田欣一の書体設計・自動写植機文字盤

今田欣一の書体設計・自動写植機文字盤拡大
「石井中太ゴシック体L」(DG-L)の文字円盤の複写

 ということは、文字が飛んだりすることがかなり多く、従来の石井明朝では堪えられませんでした。初期は岩田書体を使っていましたが、自社の書体が欲しいということで、サプトンの文字円盤のために本蘭細明朝体を開発しました。この書体の文字をよく見ていただくと、かなり食い込みが入っているのが分かると思います。文字円盤では印字が潰れないように極端に食い込みを入れていました。

今田欣一の書体設計・本蘭細明朝体
本蘭細明朝体(1975年発表・写研『文字に生きる』p.114より)

 第3世代機はビットマップフォントで「サプトロン」という機種でした。
 第4世代機では「Cフォント」というアウトラインフォントになりました。

今田欣一の書体設計・Cフォントフロッピーディスク
「Cフォント」の8インチフロッピーディスク

 Cフォントは「サプトロン・ジミィ」からですね。デジタルフォントと言っても他社の機械では使えない写研独自のフォーマットで、他社が出してない頃、かなり早い時期に出していました。1980年代のことです。その後に Mac とか Windows のアウトラインフォントが出てきました。
 写研はソフトやハードの出来ないことを書体でカバーしていくということを先代の石井茂吉氏の時代からずっとやってきました。だから写研の考え方としては、ソフトとハードと書体は一体で開発していく。サプトンという機種が出来た時は文字を修整して綺麗に見えるようにしていました。Cフォントという独自フォーマットまで開発するほどだったんです。
 一体という考え方がずっと続いたので、それが書体をオープン化できないことに対する一番大きな理由なのではないかと思います。今になってみれば、時代を捉えきれなかったと言われていますが、今から30年ほど前は写研がトップを走っていたので、自信もあって自社の中で何とかできるという考えがあったのだと思います。

 中村さんがナールゴナを作ったと言われていますが、実際に中村さんが作ったのは(ゴナでは)ゴナUとゴナEのメインプレートの文字だけです。ナールは無印のナールとナールDだけです。ファミリー化は写研の中でやりました。ゴナのファミリー化についてはまた後でお話します。

●ヘルベチカと秀英明朝

 入社1〜2年目にかけてやったのが「ヘルベチカ」という欧文書体です。欧文書体を写植文字盤化するのですが、スイスのハース社と契約して、送られてきたのが活字の清刷りでした。
 例えば、活字を並べて印刷する時にボディを基準にするのですが、活字なのでポイント数の分、活字がいっぱいあります。どのポイントのものを文字盤化するのかが問題になりました。一番画質が綺麗なのは大きいサイズですが、使われるサイズはライトやメディウムではもっと小さい。それで、基準となるポイントを決めました。画質は大きい方がいいので、60ポイントとか、大きなポイント数の活字をベースに拡大して、フィルムに焼いて、写植用のセットを取るという作業をしました。
 写植用は16ユニットシステムで、全角の16分割に納めなければなりません。サイドベアリングがそれぞれの文字によって変わるので、組んだ時にパラパラになってしまいます。それを、文字を詰めようとしてサイズを同じにしようとする(字間を少なくするために文字の幅を広くする)と、文字の形が元の活字の形と全然変わってしまいます。
 ということで、サイドベアリングを、寸法は違うけど見た目が同じになるように調節しながら、組んだ状態で変わらないように調整する作業をかなりやりました。セット幅を変えるだけでなく、元が活字なので、画質も良くしました。ヘルベチカ、オプチマ、ユニバースの写植文字盤化の作業をしました。それが写植書体を作る上で役に立ちました。
 この書体が終わったあとで「秀英明朝」をやりました。大日本印刷からデジタルタイプで出ましたので、写植の秀英明朝は忘れかけられていますが、……「写研の楽しい話」で2時間終わってしまいそうですね。(一同笑い)
 秀英明朝は初号活字を綺麗にするということですが、大きくすると活字はガタガタしていました。どうやって綺麗にするかということで、輪郭をすっと引いたところ、橋本さんに「線を作ることになるからそのやり方は駄目だ」と言われました。
 それで、Illustrator(のようなトレース)じゃなくて Photoshop でちょこっとずつ埋めて削っていくような、写真のピンホール埋めのように線を整えていきました。初号の活字が存在する文字をベースにして、活字がない文字を写研で作っていきました。
 どうやって綺麗にするかを仕様書に起こして、仕様を決める部門と制作する部門を分けようとしていましたが、今までやったことがないから請け負う部署が分からない。だから私が「来い」と言われて、最後まで自分でやる羽目になってしまいました。
 会社に入ってすぐ色々やりましたが、2年目3年目はヘルベチカと秀英明朝、あと「かな民友」も同じ手法でやったので、この3つが書体を作る上で私の基本になっているかなと思います。

●ゴナ&ナール ファミリー制作秘話

 そろそろ眠そうな方もいるので、「ゴナ」の話をしたいと思います。ゴナはUが1975年に出来ました。その次に「ゴナE」が出来て、半分ぐらい中村さんがやって、スケジュールの関係だと思いますが、残り半分を関谷さん中心で作りました。中村さんが描いた文字はゴナUとEでイメージが違っていて、ゴナEの方がちょっと懐が広かったので、ファミリー化の時にどうしようかという問題になりました。
 ゴナEをベースにして「ゴナO」を作りました。ゴナEを太めておいてその上にゴナEを貼って、アウトラインを作りました。太めるのは写真処理で、焼き付ける時に回転(円を描くように平行移動)させていました。アウトラインの太さはかなりテストして、このぐらいの太さにしようと決めました。かなり太いのでかなり回転させるのですが、回転するということは丸くなるということなので、丸くなったのを四角く立てる作業をしました。しかもアウトライン化なので、アウトラインの太さに対応するぐらい中の線を太くしなければならないので、結局全部手作業で太める作業がかなりあって、見た目よりもかなり手がかかっている書体です。
 ゴナOをベースにして「ゴナOS」を作りました。アウトラインシャドウの場合は文字を2枚斜めにずらして貼り合わせて、貼り合わせた線を手で繋いでいくんです。全部45度にすると左上が開いているように見えるので、全部手で調整しました。自分が企画して作ったように言っていますけど、下っ端でやらされただけですので。
 ゴナファミリーを作るきっかけになったのが、写研で「イカルス」というソフトを購入したことで、それを書体制作に活かそうと企画されました。鳥海「先生」が三菱銀行の制定書体の件を(『字游工房の本』で)書いていますが、それはひとつのエピソードというか、逸話というか、鈴木さんの人柄を偲ぶために書いたもので、実際の本流はイカルスを使ってファミリー化しようということでした。EとUが出来ていたので、Lを作って間をイカルスで生成しようという考えです。
 どういうファミリーを作るかを鈴木さんと考えましたが、今までファミリーというと、石井ゴシック体ぐらいしかありませんでした。石井ゴシック体の太さを全部調べて、ウェイトの太くなり方は直線的じゃなくて曲線的だろうということが分かったので、石井ゴシック体のファミリーに合わせて太さを考えましたが、「ファミリーの数をもっと多くしたらいいんじゃないか」という天の声があって、DBを入れることになりました。DBは英語でなんだと思いましたが、出来てしまいました。
 DBの前後の太さの差があまりなかったので、Bを太くしてDを細めて、ちょっとずつ(ウェイトの間隔を)開いて均等にしたことで、太くなり方のカーブがDBを入れることによって滑らかになっていくんですよね。それでEとUの間が開いたので、Hが入りました。これはヘビーという名前がありましたが、DBは言い様がありませんでした。それ以来ライトとかというのはやめて、L・M・D・DB・B・E・H・Uという、単に記号と化してしまいました。
 EとLをデジタイズして間のウェイトを作るのですが、当時は原字は手で描かなければならないという考えがあって、入力したものをフィルムで出して手作業で直すという、今考えると相当無駄なことをやっていました。当時としてはワークステーションに端末が繋がっているという状態だったので、ホストのコンピュータもそんなに多くなくて、Cフォントを作る方に費やされていて使えなかったので、全部手で直していました。
 EとLはデジタイズされたものが残っていると思いますが、それ以外は手描きで直しているのでイカルスのデータはありません。Lは新規で描き起こしました。Eは出来ているものを大きく拡大して、当時はコピーはあまり使わなかったので青焼きで大きく拡大して、ポイントをデジタイザで入力していきました。
 間のウェイトをイカルスで作ったら、太い方は太さがうまい太さにならないので、全部手作業で直しました。そういう状況であればイカルス上でLとEを修整して、BとEをイカルスのデータで直せば今なら簡単にできたと思うのですけど、まずアナログの文字盤を作って、Cフォントはアナログの原字を基にデジタイズして作っているので、その辺のデータが活かされてない。今にして思えば(無駄なことをしている)ですけど、当時はそういうやり方をしていたんです。

「ナール」の場合は入社した時にはナールと「ナールD」が出ていて、その間を写真処理で回したんだと思うんですけど、「ナールL」と「ナールM」が出ています。その次に「ナールE」が出ました。
 DBの頃はイカルスが使えたので、ナールDとナールEの間のウェイト2つと、Eの上のHとUを作ろうとしていました。DとEを入力して間が2つできる筈でしたが、Bは何故か出来ていない。多分天の声が「作るな」と言ったんだと思いますが。その時出来たのがDBで、Bは作られませんでした。

●涙のボカッシイ

 ゴナファミリーを実際に制作している頃に第7回のタイプフェイスコンテストがあって、すごく面倒くさい書体(「ボカッシイ」のこと)が入賞したので作ることになりました。当時写研は書体の企画部門と制作部門を分けていて、「ゴーシャ」、「ファン蘭」はこのシステムで作りましたが、ボカッシイの場合は制作まで全部やれということになりました。それで(企画と制作が分業の)システムが崩れて、後はそれぞれで企画することになりました。
 ボカッシイの悲哀を描いた『涙のボカッシイ』という曲があるので、聴いていただきたいと思います。
(涙のボカッシイ再生)
 アレンジしたのは亮月さん、歌ってるのが初音ミク。労働歌です。

 最初に、1978年の第5回タイプフェイスコンテストに出した書体があります。当時大蘭明朝とゴナUが出来て、太い書体を作ろうと思って出したのが、筆書き風特太書体です。これが佳作になって、次どうしようかということで、筆書きそのままは古めかしいなと思っていました。それで、新しいゴシック体を作ろうと思ったんですが、もう少し変わった、別の考え方を入れたゴシック体を作ろうということになって、第6回に応募して、これは第3位になりました。
 ……お茶が届いたみたいなので、続きは休憩明けに。

(休憩に入った。展覧会場の「Gallery cafe 華音留」さんが、トークイベントの部屋の隣のロビーで全員分のハーブティーを淹れてくださり、ほっと一息ついた。)

→つづく


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