2011.9.30(土)〜10月1日(日)
於:兵庫県神戸市内 某社
4/4
●うちの子供やったら跡継いでもらうのになぁ
亮 あ、今日こうやってお話させていただいてることって……
A 構わないですよ。もうどんどん書いてもろて、写植復活。ないけど(笑)。
そやけどほんま半年違いやねん。機械入れはったんが3月ぐらい(亮月写植室のPAVO-JV導入が2011年3月23日)って書いてあったからね。引越しがなかったら分からんかったんや。
奥 引越しを考え出したのが春やったけどね。
A もうちょっと早かったら分からんかったんや。この機械がまた活躍しとったかも分からへん。
奥 階段がね、荷物もって結構大変なんですよ。印刷って紙が重たいから。やっぱり3階はしんどいし。もう今度は本格的に引越さなあかんなあって思ったのがこの夏越してから。
A 神の思し召しかな。
奥 もうちょっと早かったらね、具体的に考えるのが。
A あと半年なー、ほんま半年。ホームページに載せてるのは3月ですもんね。
亮 3月ですね。ちょうど去年の今ぐらいの時に写植室を作ろうと思い立って、自宅の裏にあった倉庫を解体して建てたんですよ。建ったのが今年の1月なんですけど、それから写植機を探してますってことで友達とかサイトとかで広めていたらある印刷所が今回機械を処分するっていうことで譲ってもらったんです。
奥 後やる人がそんなにいないもんね。
亮 それで印刷所の方もすごくびっくりしてて、「何でこんな若いのが来るんや」って(笑)。
A さっきもうちの子供やったら後継いでもらうのになあって(一同笑)。
亮 私も継いどったかもしれません。
奥 たまにまだ聞かれるもんね、「まだ写植できます?」とかってね。
A そやからこないだ○○から電話あった言うて。「もうやってまへんで」って言うて。今時言うてくんなよ、それやったらもっと早よ言うてきてくれたらええねん。
モリサワにROBO(→写植レポート「熊本に残された『写植屋さん』」2013.5.11取材)とかいう機械がね、あれを写研仕様にしてモグリでやっとった人がおるのです。で、うちの文字盤くれくれくれくれ言うて。
奥 絶対写研って機械に1枚しか売らないでしょ。しかも2枚しか売れないのね。割れたりとかなんかしたら現物と引き換えで。普通貰えないんだけど、2枚のうちの1枚っていう感じでね。
A うちの名前で買うてくんねん。せんかったけどな結局。
奥 それだけ写研の需要があったんやね、モリサワの仕事しながらでも書体が欲しいっていうのがね。
A そら今でも需要があるぐらいなんやから、隠れ写研は絶対おるんやねん。
さっき言うた人がね、太明朝OKLを縦に打ったらわざわざ電話してきはんねん。
奥 ものすごい年配の方で、偉い感じの先生やねんけど、それだけはどうしてもそういう風に。
A 自分で「打て」って言うてきとってえぇ〜、(打ち上がったら)いがんどるいがんどる言うねん。おかしな人やな思とったんや最初。いがみようがないやん、それをわざわざいがんで打ってるって言うてくるからわしとこ怒って電話してくるから。もう言い様がないですわ。「絶対いがんでる」言うとったで。頑として譲らんかったで。何せ色んな人がおったもんほんまに困ったわ。
●「くだちい」のおじさん
亮 写植っていうととにかく面白いお話が出てきますよね。
A いっぱいありますわ。多分あちこちで言うと思うねんけど、最初やり始めた頃ね、仮名の「ち」と「さ」がね、どーも区別つかんでね、「何何してください」って打つ訳ですよ。自分では絶対これ大丈夫や思て持って行くんやね。後から電話があってん。「何じゃいこの『くだちい』て。『さ』が『ち』に変わっとるで。『くだちい』『くだちい』って全部『くだちい』になって、お前何打ってきとんじゃ!」て(一同笑)。「いやよう分からんけど現場見に行きますわ」て言うたら全部『くだちい』『くだちい』で(笑)。「ち」も「さ」も最初の頃それでごっつ泣かされたね。分かっとっても間違うねん。まぁ恥ずかしかったなあれだけは。赤っ恥っていうか。普通ね、知らんもんの怖さってあるじゃないですか。それやから思て僕は別に恥とも何とも思わんかってんけど、これだけは赤っ恥もええとこやったわもうほんまに。何回笑われたか俺も。「くだちいのおじさんや」「くだちいのおじさんや」言うて。くそったれほんまに、打ってみいって自分で(笑)。情けなかったわ。神戸は意地の悪いのがようけおるからなぁ。
リョービがね、正体なんですよ。読める文字盤。これ(リョービのサブプレート)は写研用にしとるから反対になっとるけど、逆にね、僕もうこっち(裏文字)で習ったから読まれへんのですわ。だからリョービは出来へんかったですね。だけど学校行っとる時は全部触らなあかんかってね、モリサワとリョービと写研と。写研とモリサワは逆になっとったから良かったけど、リョービの時だけは余計分からへんですよ、こっち向いてると。だから文字盤を一旦逆にして見てから「ここにあるやん」思て。かえって人間っておかしなもので、慣れってすごいもんやなあと思うんやけど。今でもここに座ったら逆でないと絶対文字読まれへんからね。今はどうか分かれへんけど。だから電算に変わった時はちょっと。そのままの字なんでちょっと悩んだけどね。GRAFはテキストで入力しとったから問題なかってんけど。サイバートはペンで取っとった(採字)もんなあ。直しは文字盤やったもん。切換えがしんどかった。
亮 体で覚えちゃってますからね、裏文字で。
A 逆でないと分からへんかった。位置探すのに。
あとは一文字探すのに1日以上かけたこともあった。どっこにあんねんてこんな字って。もうちょっと慣れてきはったらね、今度しんどなるのは、二級か三級かの区別がつかへんねん。だから三級やったら次外字(四級)でしょ。そやからどこまでが二級か。字の位置も確かに覚えなあかんねんけど、一級二級の区別がどこまでこの文字盤に入っとんかいうのが。最後の方に慣れてきたから、この字はすぐ「三級の何番」や分かったけど、その境目の慣れてくる頃にギャップが出てくると思うねんけどね。慣れてきはったら分かってくると思います。「この字なんぼメイン探しても無い。簡単な字なんやけど、何でこいつが三級なんや」っていう、あの区別の差はどこにあるのかないうのが。
これ(配列表)で一級二級いうて覚えて。だから二級三級の区別は普通の人間には分からへんねんね。それでだいぶ苦労した記憶があるんです。何回も繰り返し繰り返しやった覚えてるわ。まず自分の名前と住所から何回もやって。
亮 焼酎の「酎」とか。
A そうなんですよ。簡単なのに二級に入らんと三級とかになったり。四級は大体分かんねんけどね、滅多に出てけえへん字ばっかしやから。それが結構しんどかった。今で言うブラインドタッチになるかならへんかの辺りやと思うんやけどね。
何でその三級なんていう分ける理由がないでしょ。慣れだけしかないから。
亮 写研が勝手にこっちに入れちゃったんですもんね。
A 何か法則はあるとは思うんやけど、僕らからしたら一寸ノ巾だけしかなかったからね。これは悩んだ。実際仕事ってなるとね、全部やらないかん訳やから、これ二級三級分かるまで3年か4年かかったんちゃうかなぁ。僕は全くのこういう業界のド素人やったから、印刷の事自体知らんかったからね。仕事貰いに行った時に「版下や」て言われて、「版下って何ですのん?」て聞いて、ごっつう怒られたことあってね。「そんなん来るな!」って言われて。何でそんな怒るんかなあって思て。僕らの昔の仕事は版下納めやったからね、写植上げるいうのはごく最近……僕が辞める5年ぐらい前だったからね。
●画期的で面倒だったPAVO-KY
A まあこれ(画面)見えたからあまり版下要らんかったけどね。結構円組みとかやれたしね。
亮 Macに近いとこまでいけましたもんね。
A 放射打ちいうのも出来る。まあ殆どないんやけどね。それやるとね、デザイナー手ぇ抜くから、絶対「やってくれ」言うてくるのが分かってるから、出来るのは分かっとったんやけどわざとやらんかってね、電算になってからやったんですわ。電算やと文字放り込むだけで全部やってくれるから、これ(手動機)は見ながら打たなあかんからね、この時はやれるのは知っとったんやけどあんまり言わんかってんけど。
亮 結構記憶をさせるのが面倒くさかったとか。
A 面倒くさい。特に斜め打ちはね。縦横はええんやけど斜めはややこしかった。それと斜めに線引く時。JVは斜めに線引けるんですかね? 縦横だけでしょ?
亮 縦横だけです。
A これ(PAVO-KY)斜め引けるねんで。斜め引けんねんけど、罫線の取るの(文字盤)が違うんですよ。変なので取ったら(採字したら)太うなってしまうねん。よう間違ってね、これ。
亮 四角い点と丸い点とあるんですよね。丸いのがKYの斜めに使うもので。
A 斜めの線はよう間違ってた。それと記憶位置を斜めの所にするもんで、こことここ(始点と終点)の線が(他の縦横線と)合わんかってね。よう間違うてやったけど、これ見えるからそれだけ便利になったよね。あれ点示やったら無理やろうね。これは優れもんやと思ってる。
それにしてもちょっと高いわなぁ。これ450万言うたら考えられへんわ。さっきも言うてたけど僕が独立してやる時にJLの中古が、退職金全部注ぎ込んだ記憶があんねんけど、そこで居候させてもろて何もかも折半で、電話から家賃からコピー代、電気代、水道代。そんな売り上げあれへんしね最初。居候させてもらった所の人曰く、「1年辛抱したら飯食えるようになるわ」言うてて。そうなるんかなぁって思いながらやっとったけど、「石の上にも三年」言うけどこれ10年かかるわ(笑)。3年でちょっと打てるかなぐらいやわ。今から思たらやっぱり3年では無理やわ。だから息子には「どんな事でも最低5年はケツ割るな」って教えたんやけどね。
亮 何もかも全部覚えないといけませんもんね。一寸ノ巾も機械の使い方も全部覚えてですもんね。
●雨垂れ、石をも穿つ
A 今雨降ってきたから思い出したけど、「雨垂れ、雨垂れ」後ろから言われとるねん。「何や雨垂れって」。「ポツポツ打つから」(笑)。うるさい思たわ。人を馬鹿にするのもいい加減にせいやって。雨垂れ、雨垂れって言われて。よう考え取ったらああそうかって。それが3年5年経ったら動くようになっとるからね。あれは不思議やった。昔から手に職付けたかったん。どっちか言うと。何でもいいからね。でそれまではサラリーマンで別に手に職ある訳やないし、ただ単に働いて飯食うとる。それが嫌やったんで、いずれは独立しようとは思っとったんやけど、何で飯食ってええのかいうのが分かれへんかったからね、たまたまこれ知ったから「ああ、こいつはええわ」思たけど。まぁ何事にもそうやけど、手に職を覚えるっていう事に関してはやっぱ人生半分費やすねぇ。
亮 誰でも出来る訳じゃないですからね。積み重ね積み重ねでやっと出来る。
A 写研が大阪にあったんやけどね、教室いうか、機械買うと講習があったんですけど、1週間ほど通わなあかんかったんやけど、写研の周り見たら写植屋さんだらけや。「写植通り」いうんかね、すっごかって。ガラス張りやから見えてんねん、打ってる人が。すごいの動きが。僕言ったらさっきの雨垂れやないけどポツポツやねん。実際こないなるんかなあいうのがあってね。ちょっと落ち込んだことあった、最初。で、3日目ぐらいまでは皆初心者やからいいんやけど、4日目ぐらいからちょっと差が出てくんねんで。何でか言うと、来てる周りの人いうのは、多少経験ある人で来てはるから、全く僕はゼロっていうかほんまの初心者やから、段々差が開いてくる訳で、日にち経つにつれて。1週間ぐらい行ったったら完全に置いてけぼりいうか、皆と話合わへんしな、知らんことばっかしやし。
亮 土台のあった人と何にも知らない人との違いみたいな所が出てきますよね。
A 写植の教室やねんけど、最終的には版下で提出せなあかんかってね、版下も知らんかって。切り貼りするいう事も知らんかったし。昔は切って詰めてたんですよ。僕はやるといがむねん絶対。今でもあかんねん。線引け言うたら右上がりになるんですよ。これ(写植機)は問題なかってんけど。あんまりこの仕事に向いてなかったかも分からへんけど。けど今やって良かったなとは思っとるんやけど、この仕事をね。最終的には自分に向いとったいう風に。
●写植オペレータのやり甲斐とは
A その日によって違うんやけどね、ごっついはまる時ってあんねん。すごい字がぴたっと自分のイメージしとるスタイルと相手が要求してくる指定のスタイルがぴったし合う時があってね、その時はガンガン打っとったけど。やり甲斐のある仕事やね。
亮 自分のやったことが物として出てきますもんね、残って。
A そうそう。「お前の打ったやつごっつ見易いねん」って言われた時にね、ごっつ嬉しかった。その時は何も思わへん……まあ、思うてんねんけど顔には出さんと、帰ってきてにやーっとしとったんやけど「さすがやな〜」と思て。見てくれる人はそうやって言うてくれてたわ。さっきも言うたけど、詰めるとこ詰めて持ってったからね、ちょっと拘るとこあって。見ながらやったし。例えば書体が多いとか、何か特殊な文字盤持っとるとかでないと、こんだけの競争社会の中で生きて行こ思たら出来ひんかったんで、それもあったしね。書体の多いいうのは認められとったんでそれは良かったんやけど、こっちはどっちか言うと僕素人やから、ちょっと卑下というか。そういうのがあったんやけど。たまたま言ってくれた人がお爺ちゃんやったんやけど、「綺麗に打ってんなあ」て言われて、ただそれだけの事やったんやけどね。見てくれるとこは見てくれるんや思て。その時ごっつ嬉しかったんやて。その人の注文受けたときはごっつ緊張して打っとったんやけどね。
亮 期待に応えようと。
A ごっつ気に入ってくれて、その人は。やらんでええ事までやってた言うか、その人は本当は版下するから別に字詰めとかせんでも良かったんやけど、こっちにしたら出来るだけ向こうの手を煩わさんようにいう、まあサービス精神やね。それが最初はごっつい嫌がられとったんやけど、「勝手にすんな」って言われて。けどまあ、多分この程度やったらやってええんちゃうかないうのが段々段々分かってきだして、この辺の詰めやったらこのぐらいでええんちゃうかないう。それがごっつ喜ばれてきたん。
亮 お客さんとの組み方のいい具合が見付かっていったっていう感じですか。
A そうそう、そやから写植のええとこはそれやと思う。多分今周りにいてはるオペレータの方はそういうとこに魅力を感じてるちゃうんかな。
亮 そうだと思います。
A 僕のやり甲斐があるのはそこでね、自分の技じゃないんやけど、やった事が相手に喜んでもらえるいうのは、こんなやり甲斐のある仕事ないんちゃうかなと僕は思っとったんやけど。あっちのもん(スタッフさん)に言わしたら「そんなもん拘り」って馬鹿にするけど(笑)。
亮 現にお客さんに口に出して喜んでもらえてた訳ですからね。
A それがごっつ嬉しかったね。今でも思い出すけど。普段口うるさい人やねん、指定でもちょっとでも違うかったら「もう一回やり直せ」言うお客さんやったけど、なんぼやり直してもお金貰えへんからね。そやからごっつ辛かったけども、その人に大分助けられたんちゃうかなと思う。何回もやり直すいう事を。根気ようにやったら「こういうとこ気を付けなあかんねんな」ていう所が段々分かってきだしてね。「して」とかね、誰も気が付かへんような所指摘されとってん。「見てみぃ、これどっかおかしいやろ」て。その当時は分からんかったしね、ただ打ってるだけやから。でも「分からんのやったら言うたるけど、こういうとこ詰めてきたらプロや」て言われてね、それがごっつい頭のどっかに残っとって。(他の仕事で)出てきたら「あっ、こいつや」思てそれを得意満面にやっとった。今でも覚えとる、「す。」と「して」と。縦の組みはあまり覚えてないねんけどね、その時はこの機械があったけど最初はJLでやっとったから。この辺(操作パネル)真っ赤っかに書いて覚えとったんやけどなぁ。
亮 「こういう時はこうする」みたいな。
A ノート作ってね。1回試し打ちして持ってきよったと思う。2回同じ事してね。だから最終的には2回目のやつを持ってっとったんやけど、最初のを納めるいう事は殆どなかった。そやから仕事遅かってんけどね。そのぐらいして一人前ちゃうかなと思とったから、人の倍やって初めて。僕素人で知らんかった訳やから、人に追い付くんやったらそれぐらいせなあかんかなと、人の倍やらんとやっていかれへんちゃうかなと思ってね。
亮 お仕事をされていく中で勉強というか、吸収されていったんですね。
A 結構それが出来るようになって、さっきも言うてはったけど、書体と一致する……例えば新聞読んでて「おっ!」と思うやん。この書体とか。それが嬉しかったね。書体の名前が言えるっていうのが。人の喜びには値せぇへんねんけど(笑)。
亮 (笑)分かってもらえないですもん。
●今見てもきれいな字やなぁ
A こんな事言うたって誰も分かれへん。何やねんナカフリーってって。一人で喜んどったんや、映画見て出てきた時はね。最初イノフリーやったんですよ、字幕が。でナカフリーに変わってナールに変わって。後はもうごちゃごちゃになったけどね。
後半に色々書体出てきたもんね、イナミンとか鈴江戸とか、わっけわからん。全部買わなあかんかったけど追っ付かへんかったもんね。いっぺんに出してきよるからね、写研は。ぼつぼつ出してくれたらええのに。そやからどこまで見本帳見てね、入れなあかんかないうので自分の理想を描く訳ですよ。これとこれとこれとって。で計算するやん。やっぱあかんわ思て(笑)。そんなもんなっかなかね。最低でもファミリーは揃えなあかんからね、1個だけ揃えとったらちょっとしんどかったねん。で、揃えたかな思たらゴナのMが出たりとかね、「なんやねんこのM、どこで使うんや、最初に出しとけよ」言うて。DBとDとBが出て、もう訳が分からんようになってきてね。もうやめてくれよいうのがあって、ほんでHが出だして。まだUは良かったんや。Hが出てきたらもう、ゴナの訂正入った場合わっからへんかったからね。デザイナー分からへんからね、指定してきてはおるんやけど、(印刷物を見て)「これ(ウェイトは)何やねん」って聞いてきよるからね、逆に。特にMとLが分からんかったな。なんやMって(笑)。DBもよう分からんかったけど、Mっちゅうのはこれ必要なんかなあって。
そやけどほんまに今見てもきれいな字やなぁ。確かに欲しなるなぁこれは。フォントワークスが似た字出してるでしょ。
亮 ロダンとかスーラは私はあまり好きじゃなくて。
A やっぱりね、ちょっとちゃうねん。ニュアンスが。ナミンに似たやつもあるけど、やっぱ写研やなぁ。
亮 完成度が違いますもん。
A そこやわやっぱし。徹底して追究して、縦にも横にも合うようにして(書体)デザイナーの人がやってはるわ。これ作った人偉いわ。感心する。
●写研に認められた!
亮 今年の7月に写研が「電子書籍EXPO」っていう東京の催しに出展してたんですけど(→写植レポート「写研が動いた日」2011.7.9取材)、そこにナールの作者の中村征宏さんがいらしてて、お話をする機会があったんで聞いてみたんですよ。自分で原字を手で描いて、仮の文字盤にするんですけど、印字をしてみたのを橋本和夫さんに見せて、何回も作り直してOK貰ったのを社長に見せてそこでひたすら却下されてようやく出たのがナールだって言われたんです。今のフォントメーカーはどうかっていうのは分からないですけど、写研の時はとにかく社長の権限がすごく強くて、社長がOKを出さないと書体は出ないという状況だったものですから、それですごく完成度が高くて一目見れば写研だって判る書体が出来たんだっていう事を仰ってましたよ。
A 女の人でしょ、社長さんは。その人は全く出て来なかって。奥の方にいてはった。いつやったかな、うちが結構写研の機械を個人で、うち個人なんですよ。個人でここまでやってる奴が神戸におるっていう事が、多分営業の人が言うてくれたんやと思うねんけど、社長の耳に入ったらしくて自ら手紙をくれはったん。正月に昆布と……ごっつ拘る人やねん。めでたい事に関する何かを送ってくれた記憶がある。今までそんな個人なんか絶対見向きもしてくれへんかった社長やと僕は思とったけど、向こうからわざわざ手紙くれて。内容はもう覚えてないけど、写研にごっつ拘って仕事してもらってるいうような事を書いてたような事を記憶してんやけどね。「おおーっ、俺も認められたか!」ってその時は(笑)。
亮 社長が直々に。なかなかないことですよね、それは。
A あれは感激やったなあ。借金だらけやったもん、その時。何せさっきも言ったけど、GRAF2台でしょ、サイバートもいっぺんに入れたからね。これだけで1000万以上かかっとったから、サイバートだけで800万ぐらいだったんですよ。書体入れたら大方1000万。GRAFは両方で600万ぐらいやったかな。この辺の文字盤も一緒にちょろちょろ入れてたね。その時やったと思うねん。営業がしょっちゅう来てた。個人でそんなサイバート入れてるとこいうのは少なかったですわ、まだ。出てすぐやったし。それで多分営業の人が上へ上げてくれたんやろうと思うけどね。
●またいつか、写植を肴に
写植談義に夢中になっていると日が暮れてきた。
筆者は泊まりなので一旦ホテルでチェックインし、それから会社の皆さんと夕食をご一緒させていただくことになった。会社の近所の居酒屋にて。Aさんご夫妻と、スタッフの方が男女お一方ずつ。写植やお仕事の面白い話を肴にお酒を酌み交わす。あぁホント、取材先でこれだけ心の距離が近い感じがする歓迎ぶりは初めてだなぁ。ポンポンと会話が弾み、本場関西のノリを堪能。あっという間にお開きの時間が来た。食事も美味しかったし気持ちよく飲めた。本当にありがとうございました。
ホテルの部屋で休もうとすると普段ならなかなか気持ちの昂りが収まらず寝付けないものだが、この日は気持ちよく眠れた。
10月1日(土)。
折角神戸に来たのだからと、Aさんが神戸観光に連れて行ってくださった。神戸に住む方の視点から見た観光地というのはもちろん初めて。「近すぎていつでも行けると思うから行かへん」のだそうだ。明石海峡大橋、神戸ポートタワー、長田区の鉄人28号。昨日の取材用にカメラを持ってきていたこともあり、写真を撮りながらじっくり楽しませていただいた。お昼は会社の皆さんとお好み焼きを頂く。神戸に住んでいるようなアットホームな感覚で2日目を過ごすことが出来た。
15時を過ぎてとうとう別れの刻。とても名残惜しいが再会を約束して帰途に就く。持ちきれないほどの充実感とともに、お土産に持てるだけの文字盤を頂いた。
新神戸駅の改札でAさんともお別れ。コンコースの途中で振り返ると、手を振るAさんが見えた。
こうして神戸から写植の灯(ひ)が消える。
けれども、遠く離れた場所にも、年代が離れていても、写植を愛し、語り合いたいと思う人がいる。だからこそ、写植の灯を受け継ぎ、灯し続け、この灯を分かち合っていきたいと思うのだ。この灯は私だけのものではない。これまでに託されてきた沢山の写植への思いが集まって燃えているのだ。このような思いがあるからこそ、Aさんと出逢うことができたのだと思う。
阪神大震災を乗り越えて大切に使ってこられた写植機を引き継ぐことは叶わず、とても無念だ。しかし今、写植室には譲っていただいた沢山の文字盤がある。道具がある。そして何よりも写植への熱き思いがある。今回幸福な出逢いがあり、語らい、こうして文字になり、多くの人に読んでいただけることになった。これもまた「写植の灯」なのだ。神戸の写植の灯を受け継いで、私の写植の灯はますます強くなった。
Aさん、奥さん、スタッフの皆さん、2日間本当にありがとうございました。是非またお会いしましょう。
●プロフェッショナルのすがた(2018年2月、公開にあたって)
本稿は2011年秋に取材したものを、Aさんご本人とやり取りしながらまとめたものである。公開は2018年2月。6年以上が経過してしまった。取材させていただいた時点で、会話を書き起こして文章にまとめてあったが、改めて推敲していると見えてくるものが沢山あった。
Aさんへの取材を通して、写植業というものをより分かりやすく、オペレータの視点から知ることができた。
写植オペレータになるにも、最低限文字盤独自の配列を記憶し、写植機の操作方法を習得しなければならない。しかし採字ができて写植機が操作できるだけでは「仕事」にならない。顧客の要望に応えられるような製品を作るため、努力を積み重ね続けなければならないのだ。
その方法や秘訣は相手に指摘されたからすぐ分かる、というものではない。オペレータとして日々文字に向き合う中で意識しながら、顧客から組み方を指定され、あるいは街や印刷物に溢れた様々な書体や前後の文字の組み合わせ、レイアウトやデザインを通して徐々に吸収し、研究し、創意工夫をし続ける、ということなのだ。
その集積が仕事の成果として現れる。指定通りに印字できるのは当たり前。顧客には一見気付かれないかもしれない、しかし気の利いた仕事ができる人、それが真のプロフェッショナル=写植オペレータなのだ。だからこそ、自分がした仕事が相手に喜ばれ、役に立っていると自身で思えた時、その喜びを糧にしてもっと努力しよう、もっといい仕事をしようと思えてくるのだ。
その繰り返しが写植オペレータという職業への誇りとなり、愛情となり、仕事を離れてからも決して忘れることなく、懐かしい思い出となる。全国で取材させていただいた元写植オペレータの方々がどうして今でもこんなに熱い想いを持っていて、私に連絡をくださり、会って話をしてくださるのかがとてもよく分かった。情熱を傾け、苦労し、時には喜び、全力で進んできた道だからこそ、記憶に残るし誰かに語りたいと思うものなのだ。
Aさんは震災に遭ってもなお、写植を辞めることはなかった。それは生活の糧であったことは当然ながら、やはりAさんにとって写植が情熱を傾けうる存在だったからなのではないだろうか。計り知れない絶望の中、プロフェッショナルとしての誇りが、Aさん自身を復興させたのだと思う。「写植とともにある人生」とは、そういうことだったのである。
誰でも文字を組める(文字組みの手段が容易に手に入る)時代になってもなお、筆者が写植や写植オペレータに心惹かれるのは、高度な文字組と美しい書体がプロフェッショナルと呼ばれる「人間の力」の蓄積によって築き上げられてきたからなのだと思う。簡単には真似ができない、お金を貰ったからといってすぐできるものでも決してない、容易に辿り着くことができぬものなのだ。だからこそその姿を知りたい、近付きたい、お話を聞きたいと強く思うのである。
これはどのような職業にも当てはまる筈だ。私は職業人として日々努力を積み重ねているか? いい仕事ができているか? 喜んでいただけているか? Aさんのこれまでのお仕事ぶりを拝聴して、自分はどうなのか、将来振り返った時にこうして話ができるか、と自分に問いかけ、奮い立たせた。
【完】
→写植レポート
→メインページ |