翌日8月5日15時から、阿佐ヶ谷の居酒屋「バルト」で「プロスタディオ」さんの見学のおさらいと駒井さんへのインタヴューが行われた。日本を代表するデザイナーにも印字を提供してきた方からどんなお話を聴くことができるか、胸が高鳴った。
まずは昨日のおさらいということで、写植とはどういうものか、手動写植機の仕組み、QやHといった単位について復習した。
(※以下、聴講メモを基に、文意が変わらない程度に駒井さんのお話を再現したものです。駒井さんの談そのものではありませんのでご了承ください。幸いにも駒井さんが当日持参された資料と同じものが手許にありましたので掲載します。)
●きっかけ
私が写植を始めたのは昭和36(1961)年でした。製版屋さんと付き合いがあって写植を知りました。当時は新しい技術で、写植の可能性を感じていました。知人が写植屋として独立したので一緒に始めました。
写研の写植機「SK-3RY」を1台買うと1人写研で養成してくれまして、8時15分から16時半まで「写植教室」に通いました。土日も休みなしで1ヶ月勉強して卒業したら半人前でしたね。その頃は写植機が少なかったので、先輩の仕事が終わってから打たせてもらっていました。
●駆け出しの頃
先輩が帰ってから、残っている簡単な仕事をして覚えました。失敗したものをスクラップして活用していました。というのは、明朝・ゴシック・太明朝があれば営業できたので、スクラップから文字を拾えば仕事になったんです(笑)。同じジャンルの連続した仕事なら似た字がスクラップできました。(※筆者註:当時の写植は印画紙を捨てられないほど貴重なものでした。)
最初の仕事は絵葉書の表[おもて]の説明文でした。「○○国立公園」というものです。
SK-3RYは機械の上側面に歯車が見えていました。文字盤は小さなものが並べて貼ってありました。もし文字盤が1枚割れたらその部分だけ文字盤を買って交換していました。文字枠にそのまま文字盤を置くだけでは印字に歪みが出るので、紙や蝋を詰めて調整していました。
詰め印字は……“良い”加減にやってましたね。いい加減じゃなくて、良い加減。今のように画面がある訳じゃないから、テスト印字して詰める歯数を決めていました。
出典:『写研』47号(1978年)7ページ
図中の点や数字は詰める歯数です
ディスプレイ装置を搭載した手動写植機は後期の限られた機種だけだったので、旧来の写植機ではこのようなテスト印字が不可欠でした
お客さんはヤシカの広告、『日本カメラ』、プロレス雑誌の『週刊ゴング』、『演劇界』などのグラビアを10種ぐらい。グラビアは写植でやれと言われていました。グラビア以外は活版の写真凸版でしたね。勿論本文は活字組版でした。
月に残業100時間は少ない方でしたね。150時間が普通でした。レコードジャケット等は夜中に打って朝に納品していました。ポルシェに乗るとか、かなり儲けた人もいるみたいですね(笑)。
SK-3RYは60万円でしたが、その後90万円に値上がりしました。PAVO-8は1975年で230万円。当時都電が初乗り50円、新日鐵の初任給が104000円でしたから、相当高いものだったんですねぇ。文字盤は写研のメインプレートが1枚7万円、個人制作だと10万円でした。ゴナは高かった覚えがあります。サブプレートは5800円でした。
新書体が発売されると、デザイナーの要求を満たすために導入していましたね。1980年代の話です。オペレータと発注主が一緒になってデザインして広告を作っていました。
●デザイナーと出会い、文字組を吸収
10年経って独立しまして、杉浦康平さんと懇意にさせていただきました。鈴木一誌さんの影響もありまして、一緒に飲んだりして印字の良し悪しを教えていただきました。
デザインしても、印字したあとでカットの大きさ変更があったのでその都度打ち直していました。
戸田ツトムさんはゴナDBが好きで、行間を少なくしてQ数を小さくしてブロック単位で見せるとか、デザイナーさん毎の好みを覚えていきました。
印字の際には色々と工夫をしてるんですよ。
指定されたQ数通りに印字するのではなくて、JQレンズで大きさを微調整します。特に欧文だとアルファベットは大きく、数字は小さいですから。
出典:写研『QT』72号(1988年)24ページ
図は20年ぐらい前の指定を基に印字したものですが、基本は50Q、拗促音だけ32Qにしてさらに上下移動させるなんて、今はこんなに指定する人はいないですねぇ(笑)。
でもこのような良い仕事によってデザイナーとの信頼関係を築くことができたのです。
●質疑応答
休憩時間を前後して、駒井さんへの質疑応答が始まった。実務に即したかなり具体的なお話を聞くことができ、興味深かった。
○いつまで写植を続けますか?
──仕事がなくなるまでやり続けます!
○メンテナンスはどうしていますか?
──元写研の方が独立しているのでメンテナンスしてくれます。廃棄された機械から部品取りして、予備の為に2台持っています。組み立ての時に1台1台を個別に調整しているようで、他の機械にその部品を着けてもうまく機能しません。
○上手な文字組の為の訓練方法は?
──ゴシック体だと詰めて緊張感が出せるし、明朝だったらゆったり組んで優しさが出せますね。内容や年齢層によって組み方を変えています。これは仕事していく上で経験して学んだものですね。
○駒井さんの好きな書体は?
──秀英明朝(SHM)、石井中明朝体OKLです。SHMの欧文は独特で、装丁等には使えないですね。サブプレートの欧文書体と混植するのが普通です。
和文書体の従属欧文は使いますが、SHMと新聞特太明朝体(YSEM)は欧文書体と混植します。YSEMの従属欧文は天(字面の高さ)が大きいからです。ゴナの欧文は場所を取りすぎるので、長体1(横幅90%)をかけるか、他の書体を使うことがあります。
○写研の教育について
──仕事を始めてから7年後に、実績のある人が再び写研で教育を受けます。これには「独りよがりを戒める」という意図があるようです。
○印字の値段は?
──『俳壇』という俳句雑誌の表紙の目次で3万円ぐらいです。数時間で印字し、書体も私が選びます。定型のレイアウト位置は予めメモしておきます。
○手動写植機のオペレータは都内に何人ぐらいいるのでしょうか?
──昔、千代田区だけで200件あったと記憶していますが、統計もなく現在の人数はよく分かりません。
○昔の手動機について
──印字の精度が悪かったです。レンズが入っているのでどうしても歪みました。SK-3RYのときは樽型の歪みが目立ちましたが、PAVO-Jになってからそういう歪みが少なくなりました。
出典:写研『文字に生きる』(1975年)117ページ
ただ、Macのフォントのように綺麗に直線で輪郭が入ってくると、それが本当の文字なのかなあと思います。少し甘くてもいいじゃないですか、人間らしくて。
○良い指定・悪い指定について
──指定は原稿よりも上に描いてもらった方がいいですね。原稿台の周りにスペースがあまりなくて、原稿押さえの磁石で隠れることがあるから、どこからが指定なのかを分かりやすくしていただいた方がよいです。
○文字組に流行はありましたか?
──昔は“ツメツメ”(文字同士がくっつく寸前まで詰めること)が多かったですが、今はあまり詰めませんね。DTPで作ったものと並べると目立ってしまうので。DTPでは均等空きの操作が楽だからということもあって、それが主流です。
時代の変化につれて表現の方法も変わりました。文字をボケさせたり、写植機で絵を描いたりする人も出てきました。
活版・手動写植・電算写植が混在している時代もありました。本文は電算や活版で組んで、本の小見出しだけ手動機という風に。
有名なデザイナーさんは30代で一流になっています。装丁家の鈴木成一さんは20代の学生の頃から細かい指定をしてきました。拗促音までQ数指定とか。
○欧文は文字毎に幅が違いますが、印字はどのようにしていましたか?
──SK-3RYでは、16Qのときは文字盤に書いてある送り歯数を見て手送りしていました。それ以外のQ数では送り歯数の換算表を使って決めていました。
写研の「E欧文」サブプレート(部分)
アルファベットは文字毎に幅が異なる為、同じ幅を持つ文字をグループ化して文字盤に配列してあります。赤い数字は1/16em(全角の16分の1)単位で、横1列がそのem数に対応した文字です。
「E欧文」の書体は、プロポーショナル送り(欧文自動字幅規定装置)に対応した写植機では自動的にその送り量が与えられるようになっていますが、非対応の機種ではQ数×em/16の換算をした歯数を手動で送ります。
○長文の禁則処理について
──行末に「。」が来るときは数文字前から字送りを詰めておいて、次の行へ送らないようにしていました。
○1970年代と比べて、組版の精度は上がっているのでしょうか?
──DTP用の書体はかっちりしすぎているかな〜。もう少し遊びがあってもいいと思います。
○扱いやすい書体・扱いにくい書体はありますか?
──石井明朝のOKLを本文に使うと息苦しい感じがします。ゴナDBもいい書体ですが、あまり太いと厳しいですね。ゴナEの漢字とSHMの仮名だと息を抜けるように思います。
○印字の発注の仕方が分かりません。
──DTPでイメージを作っていただければ、それに沿って打てますよ。
○直しについて
──昔は分業だったので、直しがあると周りに迷惑をかけるため慎重でした。DTPだと幾らでも直せるからと言ってギリギリまで直しをするのはまずいですね。
ここで時間いっぱいとなった。見学から体験談、質疑応答まで写植について2日に亘り催されたことはこれまでなかったのではないだろうか。写植が表立って取り上げられ語られることは殆どないのが現状だが、写植はこうしている間にも消えつつある。手遅れにならないうちに写植の記憶と記録を残しておきたい。この催しをきっかけに想いを強くした。
写植オペレータの駒井さんとはこの時知り合い、現在も印字や写植に関する相談などでたいへん懇意にしていただいている。この場を借りて深く感謝申し上げたい。
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