2024年2月22日
於:株式会社モリサワ Font College Open Campus 12「日本語デザインを変えた技術 発明100年に1から知りたい写植の話」(ネット聴講)
題字 写植の印字:駒井靖夫(プロスタディオ)
協力 株式会社モリサワ、今田欣一
●想像を大きく超えた報せ
1990年代後半からDTP化が進展したことにより写植が衰退し、会社の方針からDTPに開放されなかった写研書体。あれから30年ほどの月日が経っていました。
2022年11月24日は画期的な日でした。写研・モリサワ・字游工房の共同開発により、写研書体のうち石井明朝体と石井ゴシック体をDTP用のデジタルフォントとして改刻し、2024年にリリースすると発表されたのです。フォント開放に向けた具体的な動きを見ることができ、興奮を禁じ得ませんでした(→写植レポート「写研が動いた日2022 石井書体の改刻プロジェクト」)
そして迎えた2024年。今年は邦文写真植字機の特許出願100周年でもあります。そのような記念すべき年に甦る写研書体。今年のいつどのようにリリースされるのだろうかと、終わりの見えないカウントダウンが心の中で始まっていました。
驚きの報せは突然やってきました。
2024年2月13日、モリサワから大きな発表があったのです。
「モリサワ 写研書体のOpenTypeフォント開発で今後100フォントをリリースすることを発表 邦文写真植字機発明100周年を皮切りに」。
※以下、発表された情報と区別するため、筆者のコメントは「【筆者のコメント】」と冠した墨付括弧【】書きとします。見にくいですがご了承ください。
その内容は筆者の想像を大きく超えるものでした。
石井明朝(ニュースタイルかな)L/R/M/B・石井明朝オールドスタイルかな L/R/M/B・石井ゴシック L/R/M/B/EBの13フォントに加え、「写研クラシックス」として30フォントも同時に提供するということでした。そして2025年以降もこれに続くフォントを順次提供予定とのことでした。
2024年にモリサワからリリースされる写研書体の見本
出典:モリサワ公式サイト https://www.morisawa.co.jp/about/news/10088
※画像をクリック/タップすると拡大します(以下の図版同じ)
2022年に発表された石井書体の改刻については、今回初めてウェイト名が明かされた訳ですが、これまでのような「細明朝体」「太ゴシック体」ではなく、末尾の「体」を除いた書体名+ウェイト表記となり、写研の書体コードに用いられるウェイト表記「L/M/D/B/E」ではなくモリサワフォントに付される「L/R/M/B/EB」が採用されたことが分かります。
【筆者のコメント】写研でのウェイト表記は引き継がれず、写植時代の書体コードに慣れている人は混乱するかもしれません(筆者もその一人)。太明朝なのにウェイトがM(Medium)とはこれ如何に。それとも特太明朝は今回リリースされず、細と中の間に新しいウェイトが設定されるということでしょうか。
もう一つ気になるのは、写植時代の太さがそのまま踏襲されるのか、今回独自に太さが設定され、従来の石井書体と太さの互換性がなくなるのかということです。もしそうだとすると、意匠の変更も相俟って読み心地に大きな影響があり、全く別の書体として扱う必要があるかもしれません。【筆者のコメント終】
一方、今回の発表の目玉である「写研クラシックス」のフォントについては、モリサワの当該ページによると「写研から提供を受けたアウトラインデータに加え、不足文字の作成、文字セットなどの仕様の整理を行いました。」とのことで、電算写植機用のデジタルフォントのデータを活用して開発され、改刻ではなくできる限りオリジナルの形状を尊重したもののようでした。その代わり収録文字数は少なく、モリサワ独自の文字セット「Min2」(ミニツー)で4833文字のみとなっているとのことでした。
対象となった書体は、(発表された画像に於ける名称・順番のまま掲載)
・石井中明朝 ・石井中明朝オールドスタイル大がな ・新聞特太明朝 ・石井中ゴシック ・ゴナ E ・新聞特太ゴシック ・石井中丸ゴシック ・ナール EL/E ・イナクズレ ・イナピエロ B ・イナミン ・イノフリー ・いまぎょう ・今宋 ・いまりゅう ・ゴーシャ E ・ゴカール H(※総合書体) ・スーボ B(※ママ) ・創挙蘭 E ・ナミン ・ボカッシイG ・ミンカール ・有行書 ・石井楷書 ・織田特太楷書 ・紅蘭中楷書 ・鈴江戸 ・曽蘭太隷書
でした。
写植時代に紙面を彩った主要な書体や写植の時代末期に発表され殆ど使われないままだった書体など、明朝・ゴシック・ディスプレイ・筆書系が幅広く採用されているように感じました。 いずれも写研らしい、代わりの利かない独自の個性を持った書体群です。書体の作者は中村征宏氏・稲田茂氏・今田欣一氏・鈴木勉氏など、数々の写研書体を制作した方のものが多くを占めました。
【筆者のコメント】その中でまず目を引いたのは、「ナール EL」という名称です。
見本の文字は限りなく細いように見えますし、モリサワの書体命名の法則から考えると、Lより更に細いウェイトがELなのですが、これはもしかして手動写植機専用書体だった(ウェイト表記がなく一番細い)「ナール」のことなのかもしれません。
そうだとすると、手動機用の文字盤しかない書体もDTP用のフォントを新規で開発するということを意味することになります。これは胸が熱い!
続いて気になったのは、「有行書」です。
写研の手動機用・電算用の書体見本帳はおろかどのような印刷物にも掲載されておらず、写研に関わられた方からも(少なくとも私には)語られなかった書体です。読み方すらも分かりません。
写研が従来発表していなかった書体がこうしてリリースされるということは、見方を変えれば写研の新書体が24年振りに発表されるということを意味します。2000年の「本蘭ゴシック」で止まっていた写研書体の歴史が再び動き出す……とても感慨深いものがあります。
最後に「スーボ B」とは……写植時代の「スーボ」(書体コードBSU)は、これとは別に「スーボ B」(書体コードBSU-B →写研公式サイトの見本)という仮名のヴァリエイションが存在していますが、今回示された見本は通常の仮名のように見えます。スーボはウェイト展開もないため、この「B」が示すものが何なのか気になります。
この見本画像だけでも、写研書体の未来を覗くような示唆深い発見がありました。その未来は、およそ30年間写研書体を自由に使えなかった私達にとってあまりにも明るいものでした。闇雲に改刻してしまうのではなく、写植時代の使い心地・読み心地を引き継ぐフォントをリリースすることこそ期待していたことであり、改刻書体とクラシックスが並存することにモリサワの良心を感じました。【筆者のコメント終】
詳細は2024年2月22日に開催されるオンラインイベント「Font College Open Campus 12 日本語デザインを変えた技術 発明100年に1から知りたい写植の話」にて、リリースされる写研書体のOpenTypeフォントについての詳細や開発アプローチが紹介されるとのこと。平日の夕方でしたがどうしても聴講したく、万障繰り合わせてその日に臨みました。
●スライドに写研書体!
※以下、筆者の聴講メモを元に再構成したものです。講演で流れた映像は黒枠としました。黒枠のない画像は筆者が作成しました。なお、講演で流れた映像は、株式会社モリサワの許諾のもと掲載いたしました。ご対応くださったM様、ありがとうございました!
2024年2月22日当日。画面の前でその一部始終を見守り、その新たな情報の一つ一つに驚きと感動を持って聴講しました。
講演ではまず、デザイナーでメディア論研究者である愛知淑徳大学准教授の阿部 卓也氏が登壇されました。阿部氏は2023年に『杉浦康平と写植の時代』を出版された方です。この本を読んだ私は、杉浦氏と写植に関する非常に詳細な解説と緻密な論攷を前に圧倒されるばかりで、こうなりたかったと自分の活動の不十分さを後悔しつつも、本書に私のことが掲載されていることを嬉しく思いました。
阿部氏は写植とは何かからその歴史、写植が書体や印刷物のデザインに及ぼした影響、
石井文字に始まる写植書体の魅力について分かりやすく解説されました。講演中に投影されたスライドには開発中の写研書体のOpenTypeフォントが使用され、少し未来を先取りしたような新鮮な気分に包まれました。ゴナの説得力!
印象的だったのは、「書体のルーツや文脈を大切にしつつも、時には掟破りな方法で自由に、作った人が思ってもみなかったような使い方を見てみたい。だってこれらの書体が最初に出た時は掟破りなものだったから。」というような言葉でした。何十年も前にナールやゴナが発表され、あまりの斬新さから爆発的に使われたあの時代をもう一度体験できるかもしれない。あの時代には思いもよらなかった使われ方を見ることができるかもしれない。早くその様子を見てみたいと思いました。
モリサワ公式note→https://note.morisawa.co.jp/n/n535327356e72
モリサワ公式動画→https://www.youtube.com/watch?v=43fDQ6MZRK4
●一からデザインされた石井書体の改刻フォント
阿部氏の濃厚な講演に引き続き、モリサワによって、2024年にリリースされる写研書体のOpenTypeフォントについての解説がありました。
まず石井明朝・ゴシックの改刻フォントについては、写植時代のデザインを参考にしつつ、現代の環境や用途に適応させるため一から新規にデザインして成熟度を高めたとのことでした。そうすることで本文書体として幅広い用途で使用できるデザインを目指したそうです。
石井明朝(ニュースタイルかな)の見本
従属欧文は「センチュリー」系統ではなく、もう少し情緒を感じる書体に変更されている。
石井明朝オールドスタイルかなの見本
石井ゴシックの見本
仮名はウェイトによるデザイン差が少なくなる方向へ整理されている。
従属欧文は写植時代のものの印象を概ね引き継いだものが採用されている。
今回発表された石井書体の改刻フォントは、2022年に発表された見本と概ね同じ印象のデザインが採用されたことが判りました。
●写植時代の衣鉢を継いだ「写研クラシックス」
続いて「写研クラシックス」のフォントについての解説がありました。
ナール ELの見本
「ナール EL」については、写植時代はウェイト名を付けず「ナール」と呼称していましたが、今回のOpenTypeフォント化に当たり「EL」というウェイト名を付けたとのことです。ナールファミリーからは同時にウェイト「E」もリリースされるとのこと。
他、「スーシャ H」「イナクズレ」「ボカッシイG」が紹介されました。
スーシャ Hの見本
イナクズレの見本
ボカッシイGの見本
有行書の見本
そして「有行書」。「ありぎょうしょ」と読むことが明かされました。この書体は、写研の社内で保管されていたデザインをOpenType化に当たって新規に公開したとのことでした。 【筆者のコメント】他にも保管されたままお蔵入りになっている書体デザインがあるのではないかと気になるところです。今後も“写研の新書体”が続々と発表されるかも!?【筆者のコメント終】
●「写研クラシックス」開発手順
「写研クラシックス」のOpenTypeフォント化についても解説がありました。
写研の電算写植機用アウトラインフォントは当時の技術的な制約からどうしても滑らかな曲線を描くことができず、現代の目から見ればがたつきと捉えられるような歪な形状も見られます。
電算写植用デジタルフォントの石井中太ゴシック体の「意」のアウトライン
直線と曲線で構成されているが、現代の目で見ればアンカーポイントが過剰で、不必要な箇所に置かれているように見える。
前図の2画目起筆部を拡大
石井ゴシック体ファミリーの大きな特徴である画線の緩やかな広がりは本来曲線で表現されるべきであるが、電算写植用デジタルフォントでは直線で描かれており、しかもアンカーポイントは階段状に置かれていることが分かる。しかし“階段”の高さは100Qの文字で0.025mm(=0.1Q、文字の大きさの1000分の1。Adobe Illustratorの変形パネルによりアンカーポイントの座標を取得。日本人の髪の毛の太さは平均0.08mmと言われている。)であり、電算写植で使用できる文字の大きさでは殆ど目視できない為、電算写植の実用上問題なかった。勿論、手動写植機用の文字盤やその印字物ではこのようなガタガタや直線形状は存在せず滑らかである。
それを今回のOpenTypeフォント化に当たり、写研で一書体ずつアウトラインを滑らかにし、高品位化した上、一部の仮名は(電算)写植時代のデジタルアウトラインではなく更にその元になった手描きの原図(原字)にまで戻ってアウトラインを作成したといいます。
しかも「ナール(EL)」については手動写植機用書体で電算写植機用のアウトラインフォントはなく、
原字から一文字ずつアウトラインを作成したそうです。
これらのアウトラインデータを写研から受け取り、ここからモリサワが担当する作業に入ります。
【筆者のコメント】今、「写研」って言いましたよね? 写研が電算フォント用のアウトラインを整えたりナールの原字からアウトラインを作成したりしてモリサワに納めたということ? もしそうだとしたら、写研の文字作りの火はまだ消えていなかったということです。写研内部の様子が少しだけ垣間見え、僅かなことを知っただけでとても嬉しくなりました。【筆者のコメント終】
こうして写研から収められたアウトラインデータをモリサワでOpenTypeにしていく訳ですが、電算写植時代のデジタルフォントとDTP用のデジタルフォントでは仕様や規格が異なり、文字を新規作成したり字形を調整したりする必要があります。書体毎にその必要がある文字が異なるため、一書体ずつ文字を点検して書体デザインやコンセプトを損なわないよう調整を進めたとのことです。その必要がある文字は一書体当たり数百文字に上るそうです。
上記の調整を行い、モリサワのエンジニアがOpenTypeフォントを作成します。
モリサワによる具体的な作業として、「ボカッシイG」が例に挙げられました。
おそらくは不足文字を作成する為だと思われますが、モリサワは書体制作の準備として、まずベースとなるゴシック体を作成しておき、Adobe Illustratorのアピアランス機能のような一括処理をかけることで文字の作成や調整ができないかと考えたそうです。しかし一括処理ではオリジナルと異なるデザインになってしまいました。具体的には、オリジナルには黒みに濃淡がありますが、一括処理で生成されたものにはそれがあまりないのです。
よって一文字ずつデザイナーが制作・調整することになり、写研からこの書体の仕様書を入手したり(!)、既存の文字を観察したり、オリジナルを制作した方から聞いた話を参考にするなどして調整のルールを定めたとのことです。
【筆者のコメント】この時スライドに挙げられた試作文字は確かにオリジナルのボカッシイGとは異なるものの、一括処理だけでここまでできるのかと感心するほど(比較しなければ)よくできたものでした。しかし上記のようにボカッシイGは人間の手で入念に調整されて完成度が高められたものであり、自動的に作れるものでは決してありません。これがこの書体の大きな魅力や効果に繋がっており、もっと言えば人間が生み出すものは機械(コンピュータ)で簡単に作れるものではなく、その複雑さや素晴らしさを物語っていると思います。【筆者のコメント終】
しかしこのルールに従ってボカッシイGを制作するにしても困難がありました。通常の書体制作では画面いっぱいに文字を表示して作業するそうですが、この書体でそうすると読めなくなってしまうので、小さく表示したものを見比べながら制作したので、通常の書体の10%程度の速さでしか制作できなかったなど大変な苦労があったそうです。
ボカッシイGの「欝」の字
ボカッシイGは45度の紡錘形の集まりやその濃淡によって構成された特殊な書体である。大きく拡大すると個々の紡錘形の形状に目が行き、何の文字であるか判別ができなくなる。しかし小さく表示すると文字全体の形状がぼんやりと浮き上がってきて読むことができる。作者である今田欣一氏の斬新な発想や、それを手描きによって書体として纏めた写研の書体への情熱と労力、そしてそれをOpenTypeフォントとして蘇らせたモリサワの技術力には大いに感動させられる。唯一無二の書体である。
再度「写研クラシックス」についておさらいがありました。
・写研の多様なデザインの名作見出し書体に仕様の調整を施し、写植全盛期の雰囲気そのままにOpenTypeフォント化したもの
・文字セットはMin2(モリサワ独自のミニツーセット)を採用
・一部の書体でプロポーショナルメトリクスを採用
・2024年には30フォントをMorisawa Fontsで提供
【筆者のコメント】Min2については、手動写植機の三級文字盤に収録された漢字が全て網羅されている訳ではない模様です。
既に決めてしまった規格の都合上、写植に使われた漢字を全て搭載することはできなかったのでしょうが、写植で使えてOpenTypeで使えない(文字盤に取り残された)漢字があることは残念です。(参考→狩野宏樹氏 @KAN0U の2024.2.22のポスト)
特に石井中明朝・石井中明朝オールドスタイル大がな・石井中ゴシックは長文を組む需要もある筈で、見出しや日常生活での用途は満たしても専門書などの本文等には厳しいです。改刻フォントの漢字と「写研クラシックス」の仮名を混植するなどの工夫が必要と考えられます。両者のウェイトが合えばの話ですが……。
また、写研書体のOpenTypeフォントはやはりMorisawa Fontsで提供されるとのこと。写研書体だけ追加したい人や写研書体の特定の書体を使いたい人のために、写研書体のみのMorisawa Fonts(本末転倒?)や1フォント毎の買い取りも可能になれば、写研書体の普及に更に繋がると思います。熱烈に希望します!【筆者のコメント終】
●生みの親は感慨深かろう
最後に、このプロジェクトに携わっている方々からのコメントが読み上げられました。
まずは株式会社写研からのコメントです。
「写植時代でも表現されなかった詳細なストロークで、書体原図より忠実に復刻し再現しました。」という言葉がとても印象的で、今回の「写研クラシックス」の一番の特徴を表していると思いました。
【筆者のコメント】 これは多くの写研書体ファンが望んだことだと思います。せっかくOpenTypeフォント化されるなら、電算写植用フォントよりも高い(他社のフォントと同等の)品質でないとどうしても見劣りしてしまうからです。
本稿の執筆に当たり、今回リリースされる写研書体のOpenTypeフォントの文字を大きく拡大して観察する機会に恵まれました。手動写植機用しかなかったナール(一番細いウェイト)は写植の印画紙上でしか見ることができず、大きさは100Qが限界でしたから、思い切り大きくして見ることはできませんでした。今回発表されたナール ELは、どこまで拡大しても滑らかな曲線を保ち、ぼけ足が全くなくシャープで、とても感動しました。作者の中村征宏氏が表現したかったナールの本当の姿を生まれて初めて見たと思いました。【筆者のコメント終】
ナール ELの「銀」(左)とナール Lの「銀」(右・100Q・写植の印字:駒井靖夫)
(それぞれ画像をクリックすると拡大)
今回発表されたOpenTypeフォントはどこまで拡大しても角は丸くならず、本来表現される筈だった形状がそのまま再現されていることが分かる。写植の印字でも目視では「ぼけ足」は殆ど判別できないが、拡大すると僅かに角が丸くなっていることが分かる。一般的に写植というと上図よりも少し滲みのある文字という印象を持たれているが、それは露光や現像が過剰な状態での印字であり、適正露光・適正現像を行うとぼけ足の極めて少ない非常に高品質な写植文字が得られることを忘れないでいただきたい。それが写植という「製品」としての本来の品質である。
そのナールを制作した中村征宏氏のコメントも読み上げられました。
【筆者のコメント】優れた書体は水や空気のように使われ、当たり前のように目にするのが本来の姿です。中村氏が制作した書体(以下「中村書体」)も1990年代まではそうでした。しかし「時代とともに文字組が写植からDTPに移行した事で、ナールやゴナを見る機会が減少していき残念な思いでおりましたが、」と語っておられるように、生みの親である中村氏は我が子のような書体達が時代に翻弄される様を誰よりも憂えていたのではないかと思うのです。中村氏がお元気なうちに中村書体が再び世の中で見られるようになることは、中村氏にとっては念願だったでしょうし、中村書体を愛する私達にとっても自分のことのように喜ばしいことです。【筆者のコメント終】
このように、今回モリサワから発表された内容は長年心から願っていたものであり、書体を使い、愛する者にとって大きな報せでした。講演が終了して莫大な充実感に包まれました。今回も万障繰り合わせて聴講してよかったと心から思いました。
●【筆者のコメント】日本の風景に“写研書体が戻る”日を夢見て
こうして、2024年にリリースされる写研書体のOpenTypeフォントの概要が明らかになり、あとはその日を待つばかりとなりました。
今回、従来の写植システム用と同等の形状を保ったフォントが発表され、写植時代と同じ写研書体がDTPでも使えるようになることが判りました。それは書体の歴史上非常に画期的なことであり、また本来あるべき状態になるとも言うことができます。
それでは(執筆現在から見て)近い将来、写研書体はどうなっていくのでしょうか。
今回写研書体がOpenType化されることで他の書体と同じ土俵に立つことにより、公平に写研書体を評価できるようになります。
写植時代のように写研書体のシェアが優位になれば、写研書体が普遍的な魅力や長所を持っていたことを証明することになります。反対に普及しないならば、写研書体は現代の需要に合わなくなっていると考えることもできます。
また、写研書体が普及すれば、一部に言われているとされる「写研書体は古臭い」という認識は過去のものになります。かつてそう思われていたという歴史上の認識は残るにしても、現行で使用されている書体をそう感じることはない筈です。金属活字時代から使用されている秀英明朝や、写植時代から使用されている見出ゴシック体MB101を古臭いと思わないように。書体のデザインだけを見て評価すればよいのです。とはいえ写研書体が「とても普及したが、ある時期だけ使われなくなった。でもまた使われるようになった」というのは、特殊な(興味深い)立ち位置だと思います。(蛇足ですが、筆者は現在まで写研書体を選択して積極的に使用し続けてきたので、写研書体が古臭いとは全く思いません。)
「ある時期だけ使われなくなった」という観点では、写研書体がDTPで使用できなくなったことにより、後発の類似書体に代替された事例は非常に多くあります。顕著だったのはゴナから新ゴへの置き換えです。DTP化が進展して30年以上が経過しましたから、現在ではモダンスタイルのゴシック体といえば新ゴが標準であり、ゴナの代替という認識を持つ人は写植時代を経験した世代に限られる筈です。他の写研書体についても同様です。そのような書体観の中で敢えて写研書体を選択することが起こるのでしょうか。まして、かつてのように世の中の風景に“写研書体が戻ってくる”(他社書体以上にシェアを取る)ことはあるのでしょうか。
写研書体にとってシェアほぼゼロからの出発である今回のOpenType化は、ある意味写研書体の真価が問われる貴重な機会です。今後写研書体がどのように活躍していくのか、あるいはこれからもこれまでの30年間のように少数派の座に甘んじるのか、その動向をつぶさに観察していきたいです。
●【筆者のコメント】書体の系譜は絶たれた訳ではなかった
これまでの30年間は日本社会にとって“失われた”と表現されるものでした。書体の歴史にとっても、時期を同じくして喪失がありました。写研から新書体が発表されないだけでなく、時代が進むにつれて写研書体を使いにくくなっていったのです。他社の書体では埋めることのできない空席がそこにはありました。写研書体の存在感や掛け替えのなさを私達は知りました。いつか“空席”に座る書体が戻ってきてほしいと心から願いながらも、いつの間にか私達は歳を取り、やがて諦めの境地になっていました。
しかし喪失だけではありませんでした。写研が主流であり続けたら存在しなかったであろう新たな流れも生まれました。この30年間も写研出身の書体デザイナー達が新しい書体を生み出し続け、書体界を牽引してきた訳で、日本の書体の系譜は絶たれた訳ではありませんでした。それぞれの書体デザイナーが個性を発揮し、より美しい書体を追求し、色とりどりの書体の花を咲かせてきました。写研の書体づくりの魂は生き続けていたのです。
そして今年、その本流である写研書体が甦ります。幹が失われたかのように見えた書体の系譜は、ようやく一本に繋がることができるのです。そして写研のものが加わった書体達はこれまで以上に私達の社会を彩り、より豊かにしていくことでしょう。写研書体も他社の書体も、それぞれに相応しい場所で制約なく活躍する時代がやってきます。そのような時代に立ち会えることを幸福に思います。
2024年は邦文写真植字機特許出願100周年でもあります。記念すべき年の為に力を尽くされている方々には本当に頭が下がります。その感謝や喜び、お祝いの気持ちは、このように記事を書いても書ききれるものではありません。願わくは、この記事を読んでくださった方、そうでない方ともこの大きな出来事とそこに立ち会った者の気持ちを分かち合いたいです。
●【筆者のコメント】写植のうたと写研音頭でお祝いだ!
かつて写研は、その創立50周年を祝い『写植のうた』(1975年)を制作しました。その歌詞の一節にはこうあります。
♪生きる望みを持ち/心に文字を描こう/
ぼくたちの人生は/光と影の写植に似ている
……あれから更に50年近くが経ち、この間に書体や日本社会にとって色々な事がありました。喜びもあれば苦しみもありました。そして今、実感を伴って、この歌の詞の意味がより深く心に沁み込んでくるように思い、感慨深い気持ちになります。
また、写研社内の催し「写研祭」では『写研音頭』(1992年)が踊られていたと言います。(→写植レポート「今田欣一の書体設計」)
写研音頭
作詞:村上富士男 作曲:今田欣一
→MP3(歌唱:初音ミク 編曲・音源作成:桂光亮月)
→振付(今田欣一様提供)
来たよ来ました 時代を超えて
どんと繰り出す 文字と文字
情報社会を 担ってく
写研音頭で 花も咲きます 文字の華
来たよ来ました 技術を超えて
どんと見せます 光りのパワー
明日のイメージ 切り拓く
写研音頭で 夢もふくらむ 新世紀
来たよ来ました 文化を超えて
豊かに実った 書体の森に
コミュニケーションの 陽が昇る
写研音頭で 空も晴れます 日本晴れ |
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……この歌は今から見れば写植の時代末期に作られたことになりますが、その歌詞は明るい未来を展望するようなものでした。しかし現実はそのようにはならず、この歌が作られた直後に訪れたDTP化の波によって写研は長い苦難の道を辿りました。そして写研書体が再び表舞台に立つ今年にこの歌詞を読むと、まるで未来を予想して書かれたようにも感じることができます(そういう意図がなかったにしても)。だって、「来たよ来ました時代を超えて」ですよ。再び写研書体が「どんと繰り出」され、「文字の華」が沢山咲くことを心から願っています。
2024年、邦文写真植字機特許出願100周年と写研書体のOpenTypeフォントリリースの年。みんなで『写植のうた』を歌い、『写研音頭』を踊ってお祝いしましょう!
写植の印字:駒井靖夫(プロスタディオ)
【完】
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