●理研工業の打診と石井・森沢の再提携
戦後ほどなくして、石井氏のもとに、東大時代の恩師で理研工業の顧問である加茂正雄教授が「写真植字機の製造権を理研工業に譲渡しないか」と持ちかけてきました。しかし石井氏は、自分達が作り上げてきた写真植字機を他人に渡してしまうことにどうしても承服できず、最後の最後に森澤氏に意見を求めました。森澤氏は熟考ののち写真植字機の製造について協力することを承諾、1946年5月に契約を結びました。
こうして一度は訣別した石井氏と森澤氏が再び手を結ぶことになりました。機械は大阪の森澤氏が製作し、これにレンズ・文字盤・電気部品を東京の石井氏が取り付けることとしました。
●森澤の独自機種に危惧
写真植字機の製造が再開され、軌道に乗り出した中森澤氏は、独自に開発していたMC型(1950年)をこれまで製造してきたA型(1936年)に代わって製造するとし、やがて大阪より西への出荷は森澤氏が(石井氏の設計したレンズや文字盤をコピーして)一貫製造・販売を行う体制にまでなっていたようです(写研『石井茂吉と写真植字機』による)。
これを危惧した石井氏は先代の石井式二六〇四年型(1943年)の改良に取り組むこととなり、1954年に本機「SK-2」が完成しました。「SK」は写真植字機研究所(Shashinshokujiki Kenkyusho)の頭文字です。
以下のような改良点が挙げられます(『文字に生きる』から引用)。
1、主レバーの把手を90度回転させて縦横組みを選択できる単一操作レバーの採用。
2、主レンズで出来る像をオペレーターが前面で確認できるファインダーの組込み。
3、シャッターが切られると同時に文字盤の固定がはずれ次の採字ができるオーバーラップ機構の採用。
4、横送りの送り方向を切り替えても正確な位置を表示する横送り用ダイヤルインジケーターの取付。
5、レンズを62級までの20本に増やし、7、8級以外はピント合わせのための上下スライド機構が不要の固定鏡筒にする。
6、暗箱を開けなくても外部から着脱、変換のできる変形レンズ装置の組込み。
7、採字用光源などもオペレーターの目が疲れない間接照明方式を採用。
先代機は曲線のフレームに光学系が載ったような簡素な形をしていましたが、本機は機能の拡充のため事務机の上に機構がどっしりと載ったような格好になり、重厚な印象に変わりました。
大幅な改良がなされた本機は発表から後継機SK-3登場までの1年足らずの生産期間で22台売れたとのことです。
●その他の機能、仕様
寸法 |
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質量 |
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所要床面積 |
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機械内容 |
主レンズ |
20本(7、8、9、10、11、12、13、14、15、16、18、20、24、28、32、38、44、50、62Q)※56、70、90、100Qは拡大レンズ併用 |
変形レンズ |
3種(No.1〜3) |
文字枠収容文字盤 |
スタンダード文字盤 35枚 |
収容感材寸法 |
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ファインダー |
有 |
点示板 |
有 |
電源、光源 |
タングステンランプ |
環境条件 |
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価格 |
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