2023年4月2日
於:亮月写植室
題字 写植の印字:駒井靖夫(プロスタディオ)
●貸し出して10年が経ち……
亮月写植室では、3台の稼働する手動写植機を保有しています。
写研の「PAVO-JV」、「SPICA-QD」、そして「SPICA-AH」です。JVとQDは2011年に滋賀県の印刷所から、AHは2012年に千葉県の印章店から譲り受けました。
しかし使用する人は一人なのに3台も手動写植機があっては持て余してしまい、稼働はするのに印字には使用していない状態がどうしても発生してしまいます。筆者は、写真植字は保存と同じくらい活用も重要と考えていますので、電子制御式の写植機2台のうち1台を2013年に貸し出しました。
貸し出したのはSPICA-AH。東京の法人様に引き渡し、マザーボード交換とバッテリー交換の修理を受け、数回開催された写植に関する展覧会では印字の体験に使用され、その模様が新聞に掲載されるなど好評を博しました。
あれから10年。貸出先でも使用しなくなって数年経ったと聞きました。きちんと動作して印字できるのかをお尋ねしたところ……
「ちゃーんと印字できますよ。亮月さん、心配しなくて大丈夫!」
送っていただいた写真を見る限り、全く問題なく動作し、鮮明に印字できているようでした。相手方が元写植オペレータさんということもありますが、貸し出してから10年も経っているのに問題なく印字できることに驚き、写植機の丈夫さに関心しました。
印字できるのであれば、貸したままで使われないのは尚更勿体ないので、再び私が引き取って整備し、活用することにしました。
●まるで少年達のように
2023年4月2日。SPICA-AHと10年振りに再会する日がやってきました。
先方様(以下「Aさん」・仮名)がバン(AHは制御キャビネットが附属し、ライトバンだと積みきれないので小さくてもタウンエースのような大きめの車種が必要)を借りて写植機を積み、東京から二人で自走してくるとのこと。Aさんは私の親世代の方ですが、物凄いエネルギーだと思いました。写植を経験された方は、写植への愛情と情熱に溢れる方が多いような印象です。
果たして帰ってくる写植機は動作するのか、外観は綺麗なままなのか、搬入はきちんとできるのか、何をお話しようか……。何日も前から当日のことが気になって頭が一杯でした。
午前にバンが到着し、Aさんと再会の喜びを味わうのもそこそこに搬入が始まりました。95kgの本体を二人で持ち上げて台車に乗せ、室内に運び込みました。本来機械式のSPICA用である「スピカテーブル」に据え付け、制御キャビネットと接続し仮設置完了。
電源を投入すると……採字用の蛍光灯が点灯し、LED表示が点りますが、起動の一連の動作に入りません。
本来なら縦送りと横送りを行って原点を検出し、問題がなければボタン操作や印字キーの押下を受け付けるのですが……。焦りました。長距離移動の衝撃で故障してしまったのか、接続が悪いのか、他の原因なのか。制御キャビネットを開けてみましたが、動作しない原因の一つであるヒューズは切れていませんでした。
写植機をよく見てみると、文字枠が斜めに嵌まった状態になっていました。恐らくは移動の際に強い力が加わってずれてしまったのでしょう。文字枠がずれやすいのはSPICA-AH特有の持病のようなもので、 普段の印字でも文字枠を勢いよく移動させると浮き上がったりずれたりすることがありました。
何とか文字枠を正規の角度に直すことにしました。本体右側に字づら検出のための検出板読取機の基板があり、これと文字枠右側の字づら検出板を装着する箇所が干渉していました。無理に直すと基板が割れて字づら検出ができなくなるので、何度も位置関係を確認ながらAさんと二人掛かりで慎重に文字枠の位置を修正しました。
文字枠と字づら検出板の位置関係(本体右側から撮影)
説明のため、検出板読取機の保護カバーは外してあります
文字枠がどこにも干渉しないのを確認し、電源を投入しました。
※以降、デジタル一眼レフカメラで動画撮影を行っており、被写界深度が浅いためピンボケになっている箇所が多くありますがご容赦ください。また、音声の臨場感を高めるためバイノーラル録音による収録を行いました。聴取する環境(ヘッドフォンなど)によっては目の前で写植機が動作するように感じていただけると思いますので、音声もよく味わってみてください。なお、動画は全て後日収録しました。
→SPICA-AH 起動(9秒、9.6MB、バイノーラル録音)
【解説】電源を投入すると、まず印字位置が機械原点(座標(0,0)、印画紙の左上)へ復帰する動作をします。原点復帰が成功すると、縦・横送りの動作確認が入り、それが成功するとQ数に応じた点示位置へ(トップセンター方式の場合、Q数の半角分だけ組み方向へ)移動、LED数字表示が印字位置の座標を示します。
見掛けはこのような動作をしますが、全ての機能のチェックを順番に行っているように思われます。先程文字枠がずれていて起動しなかったのは、文字枠の固定を検出して異常がなければ次のチェックに進むというプログラムになっていて、異常によりそこから進むことができず各種動作チェックに至らなかったからではないかと考えます。
無事起動しました!
「ほぅら、壊れた訳じゃなかったんだよ! よかったよかった!」
私達は嬉しさの余り、まるで試合に勝った少年達のように、肩を叩き合ってぴょんぴょんと飛び跳ねました。写植の事になると、私達は本当の年齢を忘れ、少年の心に還ってしまうのです。写植はそれほど夢中になれる存在なのです。
それでは、ボタン操作はどうでしょうか。
→SPICA-AH 送りボタンの動作(45秒、46.1MB、バイノーラル録音)
【解説】まず、横方向の送りI(この動画では全角ベタ送りに設定)、1/2送り、1/16送り、1H送りボタンを押しています。主レンズは24Qで、本機はQ数と連動してH送りが変化するので、それぞれ24H、12H、1.5H、1H座標が移動しているのがLED表示から判ります。次に縦方向でも同じ順番でボタンを押しています。
続いてSP(スペース)ボタンを押しています。このボタンは送りIに設定された送り量の5/16emだけ送りますので、24Q全角ベタ送り設定時に1回ボタンを押すと24×5/16=7.5H座標が移動します。
後半はボタン操作に伴い移動する点示板を撮影しています。ペンのようなものが指している位置が印字位置です。印画紙のどこに印字しているかが分かるようになっています。
→SPICA-AH 印字キーの動作(22秒、22.7MB、バイノーラル録音)
【解説】白い印字キーに掌を乗せ、半押しすると文字枠が固定され、全押しすると印字して次の印字位置に移動します。LED表示は横位置が24Hずつ移動しています。見にくいですが、印字キーを全押しした時に画面左上の主レンズの下辺りが青白く光り、光源のフラッシュランプが点灯するのが判ります。
→SPICA-AH 座標記憶0番地の動作(7秒、7.4MB、バイノーラル録音)
【解説】座標記憶(表示パネルでは「メモリー」)の「0」(0番地)ボタンを押すと、現在の座標から原点(0,0)に復帰します。LED表示と点示板も連動して動作します。
送り関係のボタンや印字キー、フラッシュランプ、座標記憶も全て動作し、点示筒や座標のLED表示も問題なく連動していました。
動作は異常がないようで、すぐにでも印字できそうでした。先に送っていただいた印画紙の写真からも、光学系も問題ないと判断しました。
実際に私が印字して現像した訳ではないので何らかの不具合は今後見付かるかもしれませんが、無事この手に戻ってきたことを嬉しく思いました。
最後に、なかなか直接お会いできないからとSPICAの前で二人で記念写真を撮り、再会の喜びを噛み締めました。Aさんとはよく電話やメールでやり取りをしますが、直接会って同じ空間を共有しないと分かち合えないものは確実にあります。戻ってきたSPICAがそれを象徴しているようでした。
「来年は写植機発明100周年だから、お互い頑張りましょうね!」
写植への愛を深めることを誓い合い、Aさんは帰途に就かれました。
→SPICA-AH 電源切(15秒、15.3MB、バイノーラル録音)
【解説】電源を切る様子だけですが、電源断の瞬間にLED表示が全点灯してから消灯します。かつて電卓に蛍光表示管(FL管)が使用されていた頃、電源を切る時に数字が一瞬だけ全点灯してから消えていたのを思い出しました(歳がバレる)。
●長旅を労る
無事に戻ってきたSPICAを前に、ほっと気が抜けました。
それは長旅に出ていた我が子が帰ってきたような心境でした。
SPICAをよく見ると、長年貸し出していたことによる汚れや傷が付いていました。
特に養生テープの跡が酷く、Aさんはどうしても剝がし切れなかったようです。
満身創痍でした。
文字枠のレールは錆び付いていました(写真の緑矢印)。10年間全く注油されなかったのでしょう。文字枠を動かす度ぎこちなく擦れる音がして、所有者としてこのような姿を見るのは辛いものがありました。
かつて私の手元にあった頃は新品同様に綺麗で動作も滑らかだった筈。このまま使い続けるのは写植機が不憫なので、養生テープの跡を剝がすことにしました。
養生テープの跡を剝がすには無水エタノールが有効です。その他手垢などの汚れには「ウタマロクリーナー」、文字枠のレールの錆びはクレンザーで磨くことにしました。手前にある小さく透明なプラスチックの瓶はシリコンオイルです。文字枠のレールや歯車の噛み合わせ部分などに垂らし、潤滑させるためのものです。
雑巾に無水エタノールを含ませ、養生テープの跡によく染み込ませてひたすら擦ります。
そうすると糊の成分が溶け出し、テープがほんの少しずつぽろぽろと剝がれていきます。とはいえ簡単に剝がれるものではなく、SPICA全体の養生テープを剝がすために3時間程度かかりました。手の握力が殆どなくなっていました。
さて、満身創痍だったSPICAはどうなったでしょうか……。
養生テープの跡をほぼ剝がし取ることができ、本来の滑らかさが甦りました。部分的には、鋭いもので養生テープを掻き取ろうとしたのか、塗装がなくなっていることが判りました。かつては新品同様だったのに……。車のタッチアップペンの色が近いものを探して復元しようと思います。
最後に注油します。
SPICAがここに還って来て初めて動作確認をした時は、金属と金属が擦れるような音や歯車の回転音が大きく感じ、長らくメンテナンスがされていないように感じました。このままでは摩耗して動作しなくなってしまうので、機械を長く使うためには注油が必要なのです。
裏蓋を開けると、大きな主レンズターレットが現れました。
横送り用の歯車とラックの噛み合わせ部分に少量のシリコンオイルを垂らし、潤滑を復活させます。縦送り用も別の箇所にあります。摺動する箇所には漏れなくシリコンオイルを注油しました。
設定保持のためのバックアップ用の充電池です。この個体は2012年に私が譲り受けてから基盤が腐蝕したため一度動作不能に陥りました。基盤が腐蝕した原因は充電池が劣化して基盤を侵したことです。幸いこの個体は基盤を交換する好機に恵まれ、コードレス電話機用のニッカド電池(3.6V、600mAh)に交換され、万一電池が腐蝕しても基盤を侵さない位置に移設されていました。(→参考:写植レポート*PAVO-JV バッテリー交換)
注油が終わってから動作確認をすると、軽快な動作音に変わっていました。何日か経つと油が廻ったのか、さらに静かになりました。
●機械式のSPICAもメンテナンス
作業のついでに、もう一台のSPICAである機械式の「SPICA-QD」も清掃と整備を行いました。
→SPICA-QD 主レバー動作・横送り・縦送り(1分01秒、59.8MB、バイノーラル録音)
【解説】全景からエンブレムを撮影。そしてその近くにある一番大きなレバーが主レバーです。これを押し下げると文字枠が固定されるとともに印字され、設定した送り量が送られます。
続いて点示筒が画面に映り、印字位置が移動していることが判ります。よく見ると点示器が作動しています。インク切れのため点は打たれていません。
最後に押し下げたのは縦方向の空送りレバーです。設定したH数だけ縦方向に移動します。ある程度進んだ所で「チーン」と鳴ります。これは行末を知らせるベルで、ベルが鳴る位置を任意に設定できます。
以上、現在の目から見れば原始的な機械式の写植機ですが、原理が単純かつ明快で、直感的に操作できるのが大きな長所です。
こちらも筐体の輝きと滑らかな動作を取り戻しました。半世紀が経っても確実に動作する機械式の写植機。電子制御式は基盤や電子部品が一つでも故障すればたちまち動作不能に陥り、自力での修理は不可能です。しかし機械式は仕組みが分かり易く、軽微な故障や不調なら復旧可能です。機械式の写植機は、定期的に動かしてやって整備すれば私よりも長生きするかもしれません。そういった意味でも、写植を印字する「最後の手段」として必要な存在なのです。
●写植機は人間の営みとその素晴らしさの結晶である
今回は、貸し出していた写植機が再び私の元に還ってきたことと、メンテナンスを施したことだけをレポートしましたが、そこから感じたことや見えてきたことがありました。
写植機の清掃とメンテナンスをすると目に見えて外観と動作が良くなり、写植機が私に応えてくれたかのように感じました。まるで写植機に心があるかのように錯覚してしまいました。
写植機は、人が一文字ずつ文字を生み出すために、一台ずつ人の手で作られた機械です。写植機を通じて人間の営みとその素晴らしさを感じるのです。大切にしている機器のことを「愛機」というように、写植機は人間にとってパートナーであり、家族のようでもあり、生活の糧となる、大切にすべき存在だったのです。綺麗になって軽やかに動作する写植機を触っていると、佳き時代の人間と機械との濃密な関係性を五感で感じることができ、これも写植の魅力だなぁと思いました。決して懐古趣味なのではなく、人間が本来持つ感覚が満たされるような悦びを感じるのです。
これは文章を読んでいるだけでは決して味わうことができない感覚ですし、文献を追ってまとめたとしてもそこに近付くことは困難です。取材をして話を聞いたとしても、その感覚は借りものであって自分のものではありません。こうして写植機が「自分のもの」になった時、オペレータが写植に対してどのような想いを持ち、どのような感覚を目や耳、肌で味わい、記憶していたかを、初めて理解することができるのです。
かつて私は、写植オペレータになって、写植を五感で味わいたかった。オペレータになれなかった私は、だからこそ写植機を自分のものにしたかった。それが叶えられている今、技術や知識の巧拙はともかくとして、写植の魅力に可能な限り近付くことができたのではないかと思っています。書体や組版といった美しいものに近付きたい。また単純に未知のものに近付きたい。それだけでなく、人間が本来持つ感覚を満たすものに近付きたい。その強い希求が、私をここまでさせたのではないかと思います。
→亮月写植室内の風景・写植機3台(24秒・24.3MB・バイノーラル録音)
【解説】順番に、SPICA-QD、PAVO-JV、SPICA-AHを撮影しています。
こうして、亮月写植室の写植機は10年振りに3台となりました。
電子制御式の万能型、電子制御式の卓上型、機械式の卓上型と異なる性格を持った3台です。それぞれに長所や味わいがあります。業として写植を印字する訳ではありませんので持て余すことにはなってしまいますが、生きた写植を末長く残すにはこのぐらい冗長であってもよいと思います。どれかが故障してもまだ印字できるというのは安心感があります。
亮月写植室へ見学に来られた際には、お好みの写植機で印字していただけます。生きた写植を五感で感じていただけたらと思っております。ご興味のある方は是非見学にいらしてください。
【完】
→写植レポート
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